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稽古後は仲間と激論 流山児祥さん「演劇と酒とは不可分」

日刊ゲンダイDIGITAL 9月12日(月)9時26分配信

 アングラ劇団全盛期の60年代後半に演劇の世界に入って以来、時には喧噪=ゲバルトも辞さない過激な表現活動で注目を浴びてきた流山児祥さん(68)。プロデュース・演出作品は計350本を超え、海外公演も約15カ国・地域にのぼり、「アジアでもっとも有名な演出家」と呼ばれている。そんな流山児祥さんの演劇的酒人生とは。

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 酒の原点は三井三池炭鉱があった生まれ故郷の熊本県荒尾市。当時は結婚披露宴で三日三晩飲み明かすような土地柄だったから、何かというと酒盛りが始まったし、大酒飲みが多かった。

 親父も強かった。ただ、炭鉱の職員から炭労(日本炭鉱労働組合)副委員長に選ばれ、後に総評副議長にもなったので、ずっと東京に単身赴任。家に帰るのは月に1回あるかないか。俺が小学校高学年のころだから1950年代後半、当時としては珍しかったウイスキーを手土産にして帰省してたのを覚えてる。

 その後、親父の転職で中学3年の時に千葉県流山市に転居して進学したのがバンカラで有名な東葛飾高校。当時は先生も豪気で、卒業式が終わったら率先して俺たち教え子と寿司屋で酒盛りしてた。もちろん親たちも公認。それが許された時代だったんだ。

 親父と初めて外で飲んだのは青山学院大に進学して間もなくで東銀座・三原橋の袋小路にあった、確か「ビルゴ」って名前の小さなバー。出されたのがバーボンだった。店のママが親父の“彼女”だったらしい。親父は俺が23歳の時、そのママが新たにオープンした新大久保の飲み屋で急死してね。死因は心不全。労働運動に邁進した活動家でもあった親父らしい、破天荒な最期ともいえるよ。

 そんな経験があるから俺にとって酒といえば、日本酒でも焼酎でもなく、ウイスキーかバーボン。松田優作、原田の兄貴(原田芳雄)に倣い、ジャック・ダニエルにこだわってたのは80年代だった。俺にとって演劇と酒とは不可分でね。酒はコミュニケーションツールであり、イマジネーションの源。20代のころから今に至るまで稽古後は酒を飲みながら社会や芸術について激論を戦わせてる。

 そういえば、70年代から90年代にかけて一世を風靡した東京キッドブラザースの主宰者・東由多加さんは凄かったよ。足元に缶ビールの空き缶を10~20本転がしながら徹夜の稽古に目を光らせてた。最後は本人が寝ちゃって、ようやく役者が解放されるってオチなんだ。

 稽古場ではともかく、最近は役者も含めてまったく飲まない演出家が増えてるから、俺にしてみると物足りないところはあるよ。酒の力を借りるわけじゃないけど、酒の席でないと分かり合えないことって多い。本音と本音がぶつかり、その結果「殴り合い」になり、「流血騒ぎ」になったとしても、それで関係性が良くなるってことだってたくさんあるもんだったしね。

■酒を飲まない寺山修司が乾杯の音頭

 とくに俺たちの仕事って、生身の肉体を使って表現するんだから、うわべだけ飾るなんてもってのほか。ある面、純粋なんだと思う。そんな中で一番印象的なのが演劇実験室◎天井桟敷を主宰していた作家で歌人でもある寺山修司さん。

 70年12月に渋谷の喫茶店に呼び出されて以来の付き合いだったけど、俺が作った「演劇団」が79年に第1次解散した際のパーティーでは、乾杯の音頭をとってくれたんだ。あの時のことは今も鮮烈に思い出すね。だって、肝硬変を患って入院する直前。普段はビールどころか酒を一切飲まない人だったから。

 そして「流山児祥はこれから重賞レースを目ざす。世界へ征け!」と、やや落ち込み気味だった俺に「檄」を飛ばしてくれた。「重賞レース」って言葉が出るあたり、大の競馬好きだった寺山さんの面目躍如だけど、それが91年から始まる25年続いている海外公演のきっかけとなったんだ。酒が結ぶ縁はこれからも大事にしていきたいもんだね。

最終更新:9月12日(月)9時26分

日刊ゲンダイDIGITAL