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江戸後期の日米開港交渉 神戸は堺の補欠だった

神戸新聞NEXT 9月14日(水)16時0分配信

 時代(とき)は江戸時代後期。幕府と米国との間で行われた開港、開市(し)(商いをする場所)交渉で、米側がこう切り出した。「(近畿は)京都と大坂(大阪)が望ましい」。皇居のあった京都を回避したい幕府側は、開市は大坂、開港は堺を提示。一度はこれで合意したはずだった。しかし-。外国人が開港地で自由に出歩ける「遊歩区域」をめぐる協議が紛糾し、最終的に“補欠”だった神戸で決着した。約150年前のこの遊歩区域論争がなければ、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

【図】当時の外国人「遊歩区域」

 1868年1月1日に開港し、来年150年目を迎える神戸港。1972年発行の「神戸開港百年史」には、「きわめて複雑な紆余(うよ)曲折」「手間ひまがかかった」と開港の経緯が記されている。

 1857年以降の江戸幕府と米国の開市、開港の交渉を記録した外交史料集「続通信全覧」などによると、近畿地方で米側が当初望んだのは京都と大坂の2都市で、神戸は含まれていなかった。幕府側は皇居があった京都を受け入れず、開市は大坂、開港は南蛮貿易などで栄えた堺を提示し、協議はいったん、まとまった。だが、半月ほどたって事態は一変する。

 「遊歩区域」の協議に移り、米側は堺の居留地から10里(約39キロ)四方を要求。これに対し、幕府側は「10里とすると、大和(奈良県)にも及ぶ」「大和には(天皇陵などとされる古墳の)御陵が多い」と拒否。米側の「京都に近づかなければよいのでは」との反論にも「大和に近く差し障りがある」と譲らなかった。

 文献には、幕府側が大和や御陵にこだわった理由は記されていない。「神戸外国人居留地研究会」の楠本利夫理事は「大和は、奈良時代に都があった重要な場所。御陵も皇居と同じように神聖視されており、開国反対派に、幕府への攻撃材料を与えたくなかったのでは」と推測する。

 平行線をたどる議論を動かしたのは、「京都を中心に半径10里四方には入らない」という米側の追加案だった。幕府側はあくまで堺を拒否する一方、猪名川以東に出歩かないことも合わせて認めるなら、代わりに兵庫の港(現・神戸市兵庫区)を開港すると応じた。兵庫の港は、奈良時代の「大輪田泊(おおわだのとまり)」以来の歴史があり、それまでの協議で「和田岬が突出しており、波風を防ぎやすい」などの利点から候補地に挙がった経緯もあった。

 幕府側の提案を米側も了承し、開市は大坂のままで、開港地を堺から兵庫の港に急きょ変更。その後、兵庫の地元の混乱が懸念されたことなどにより、湊川を挟んで東側の神戸(同中央区)に移すことで最終的な決着をみたという。(小川 晶)


■兵庫県の枠組みにも影響

神戸の地域史に詳しい田辺眞人・園田学園女子大名誉教授の話

 「10里」という広い遊歩区域は、居留地が設定される中で、せめて自由に出歩ける範囲を確保しようという米側の思惑が反映されているのだろう。現在の兵庫県域が、摂津、播磨、但馬など旧5国の広範囲から形成されたのは、開港により、神戸の重要度が高まったことが一因にある。もし堺開港で決まっていれば、県域は細かく分割されていたはずだ。

最終更新:9月14日(水)23時12分

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