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台湾“監獄島”といわれた時代に学生生活…国民党の戒厳令下で逮捕も

産経新聞 9月14日(水)17時0分配信

 【話の肖像画】元台北駐日経済文化代表処代表・羅福全氏

 〈昭和20(1945)年、埼玉県内で玉音放送を聞く〉

 学童疎開が東北に移るというので母が私を引き取り、私たちは埼玉の北本宿(北本市)へ移りました。伊豆からの帰りは東京大空襲の2日後。列車から見えるのは、焼け野原から立ち上る煙でした。米軍が沖縄に上陸したため台湾から私たちへの仕送りが途絶え、古着をイモや野菜と物々交換しました。米はもう非常に少なく、大豆のかすをご飯に交ぜていましたので、戦後、蒲田(東京都大田区)の闇市で食べたイカの丸焼きや白米はおいしかったですね。8月15日、重大なニュースがあるからラジオの方へというので、一緒に暮らしていた日本人の家族や私のいとこ、姉らと集まった。いとこは高校生で、放送が始まると「もう私たちは日本人じゃないから聞かなくてもいい」と席を外しました。私は「もう空襲はない。われわれは台湾人なんだ」と思いました。

 〈21(1946)年2月、氷川丸に乗り、台湾へ帰った。台湾では日本に代わり、中国国民党による支配が始まっていた〉

 氷川丸は戦時中、病院船として使われていたから、船体は真っ白に塗られて赤い赤十字のマークがありました。一般の台湾人は祖国に期待を持って帰ったと思うのです。ところがこの思いは結局、後に非常に短い時間で砕かれることになります。氷川丸が基隆(台湾北部)に着き、その後、混雑して窓もない夜行列車に乗り、嘉義へ帰り着きました。駐日代表の時、横浜に保存されている氷川丸を見に行きましたが、何ともいえない思いでした。

 〈国民党は中国で中国共産党との内戦が激化し、台湾への支配を強化。国民党の独裁的な支配に台湾住民は不満を募らせていく。翌年2月28日、台湾住民と当局による大規模な衝突(二・二八事件)に発展し、当局が住民に発砲するなど武力で鎮圧。民衆への弾圧は続き、一連の犠牲者は数万人ともいわれる〉

 嘉義は非常に激しい攻防でした。市内は銃撃戦があるので、母は私たちを連れて市外の親類の家を渡り歩きました。落ち着いたと思い帰ったところで、駅前で行われた銃殺刑を見ました。うちは駅から200メートルくらいのところで、2階から見えたんです。トラックの後ろで手を縛られ、首から下げられた白い札には黒い字で何かが書かれ、その上から赤でペケされて。トラックから降ろされたところを、パンと。中には、人望の厚い医者もいました。あのころ、歌がありました。「われわれは祖国に帰った。ところがその夢は1年ちょっとで破れた」という意味の歌でした。

 〈台湾ではその後、38年間という世界最長の戒厳令が敷かれ、“監獄島”といわれたこともある。その中で学生生活を送った〉

 もちろん日本語はしゃべっちゃいけない。学校では地元の台湾語もだめ。学生の集会は禁止され、歴史の授業は中華民国の歴史というか、国民党の正統性を学ぶものでした。学校の先生の中には特務、いわゆるスパイがいて、校長や先生、学生を監視しています。蒋介石(初代総統)の統治というのは、この特務で統治しているようなものでした。私は中学2年のとき、身分証を携帯せずに旅館に泊まったため逮捕され、迎えが来なければ離島に送ると脅されたことがあります。(聞き手 金谷かおり)

最終更新:9月14日(水)17時0分

産経新聞

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

斬首動画が何百万回も再生されてしまう理由
昔は街の広場で、現代はYouTubeで。歴史を通じ、公開処刑には必ず人だかりがつきものでした。人が処刑というものを、恐ろしく不快に感じながらも、つい気になって見てしまうのはなぜか。フランシス・ラーソンが人間と公開処刑の歴史、中でも斬首刑に焦点を当てて解説したこのトークは、気分の良い内容ばかりではありませんが、同時に興味をそそること間違いないでしょう。