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[寄稿]セウォル号疲労感の実体

ハンギョレ新聞 9月14日(水)20時28分配信

 未だに続いているセウォル号関連の妄言に接する度にドキッとする。愚かな上にえげつなくさえあるという感じだ。先週セヌリ党のチョン・ユソブ議員の発言を聞いてもそうだった。「いつまでセウォル号の泥沼にはまっていなければならないのか。セウォル号の座り込み場を撤去して、もう正常に戻るべきだ。それが国民の願っていることだ」 いかにも30年経歴の海洋水産部マフィア出身らしい発言だ。

 ちょうど一週間前、朝鮮日報は指令を下すかのようにチョン・ユソブの妄言とそっくりの社説を載せた。
「子供達を失った親の切なさと怒りは、時間が2年、3年経ったとしても鎮まり難いものだろう。しかし、光化門のセウォル号の天幕はもう片付けるべき時が来た。 まず遺族を、セウォル号が沈んだその無惨な記憶の苦痛から解いてあげなければならない。 ( … ) 国民も沈鬱な記憶に長いこと捕らわれているわけにはいかない。 ( … ) 哀悼もあまり長引けば意味が褪せてしまいかねない」。 遺族達の切なさや怒りが何であるか、そもそも分かっているのかどうか。。。。いっそのこと、子どもがいたという記憶自体を消してしまえと言うのか。

 ある記者は「セウォル号惨事は国民全体を衝撃に落とし入れた事件であったが、今ではセウォル号の追悼天幕は国民に真相糾明より疲労を感じさせている」と声を張り上げる。分かっている振りをしているがまるで分かっていない人が言うことだ。

 セウォル号のような災難局面では誰もが疲労感を感じざるを得ない。一般市民だけでなくセウォル号の遺族も同じだ。誰にとっても統制不可能な状況であるからだ。疲労感とは、統制不可能な状況に、何もできず手をこまねいているしかない状態に晒されている時に現われる全方位的エネルギー消耗の別名だ。

 現代社会において、集団的災難を統制し解決することのできる主体は国家だけだ。災難に対処するには状況収拾もしなければならないし、真相糾明と治癒だけではなく再発防止対策も必須である。 そこには天文学的規模の人員と組織、情報とお金が必要だ。 この過程は個人の統制領域外の仕事だ。

 セウォル号疲労感を解決できる主体は遺族でも市民でもない。国家だけだ。国家だけが全体的に統制可能な事だからだ。セウォル号疲労感が依然として続いているならば、それは国家がすべきことをしていないという証拠だ。他の国では、これほどの災難事故が発生しても疲労感を云々しながらもう止めようという言葉は出てこない。国家がそういう役目を当然引き受けるからだ。 だから、単にセウォル号の天幕を撤去したからと言ってセウォル号疲労感は消えるはずがない。

 セウォル号惨事の局面において、この国は幽体離脱国家だ。生存者救助も漁船がやり、遺体収拾も民間潜水夫が行なった。治癒も真相糾明すらも、ボランティアと遺族が乗り出さなければならない。大きな災難のような総体的難局において、個人の参加は荘厳で感動的だが部分的にならざるを得ない。国家が乗り出して初めて、まともな解決が可能である。当然のことながら、セウォル号疲労感の解決主体も、逆にもっと悪化させることのできる主体も、国家だ。国家がなすべきことをせずに、他人事を眺めるようにしているのだから、子供を失った親の胸に塩を振って傷を悪化させるばかりの妄言族が、被害者に対して自分たちの疲労感までも解決しろと責め立てる不條理な現象が生じている。

 『トンネル』は、極限の災難状況に置かれた国民に対する国家の無責任と無能力を赤裸裸に見せてくれる映画だ。 トンネルに閉じこめられて死闘を繰り広げている人がいるのに、世論調査の結果 60% 以上が疲労感を訴えたら救助を中断しようと言う。 そのような時に、国家はたったの一人でもあきらめないで救助しなければならないのだ。疲労感を云々せずに最後まで。 そういうのが国家の威厳である。映画『トンネル』の関連検索語が 「セウォル号」だということは、セウォル号惨事がいかに私たちの無意識に深く根を下ろしているかをよく見せてくれる。セウォル号疲労感は幽体離脱国家に暮らす国民だけが経験する極めて稀で不幸な感情である。

イ・ミョンス (「治癒空間 隣り」代表) (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:9月14日(水)20時28分

ハンギョレ新聞