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米国籍を取得して国連で仕事 世界で孤立していった台湾に思ったことは…

産経新聞 9月15日(木)17時5分配信

 【話の肖像画】元台北駐日経済文化代表処代表・羅福全氏

 〈台湾最高学府の台湾大学で経済学を学んだ後、修士課程で早稲田大学に留学。さらにその後の1963(昭和38)年、米国へ留学した〉

 日本に来ると、帰ってきたという気持ちになりました。当時は安保闘争の真っ最中。早稲田の大隈重信像に反米・反政府のプラカードがかかっているのを見て、こんな自由な国があるのかと思った。学生運動を見ていたら中国国民党による圧制下にあった台湾には帰れません。帰れないならアメリカまで行こうと。当時、早稲田で経済を学ぶ傍ら、東京大学でも聴講生をしており、東大の教授に将来10年、経済の分野で伸びるものを聞いたら「計量経済学と地域経済学だ」というので、この2つのトップの教授がいるペンシルベニア大学に行くことにしました。

 アメリカは本当に民主国家でした。初めて「二・二八事件」に抗議するデモに参加したら、アメリカの警察というのは私たちの安全を考えてデモを保護してくれるのです。でも後に、FBI(連邦捜査局)が来て「あなたは共産党か」と聞いてきました。私は「中国の一部になりたくないから独立運動をしている」と答えましたが、当時は東西冷戦の最中で、国民党がFBIにそう言ったのでしょう。こうした活動を続けていくなかで、私は国民党のブラックリストに載るわけです。

 〈ペンシルベニア大で地域科学博士を取得、米民間調査会社を経て73(昭和48)年、国際連合の職員となる〉

 私の地域開発に関するリポートを見たというポーランド人から「名古屋に設ける国連地域開発センターで仕事をしないか」と電話があり、「ぜひとも行きたい」と答えました。偶然舞い込んだ新しいチャンスです。ところが私はブラックリストに載ったため、「中華民国」のパスポートを失効させており、米国籍も申請していなかったため無国籍でした。私は急いで米国籍を取り、国連は世界で仕事をするための国連パスポートを発行してくれました。

 国連には27年間勤めました。70年代は経済発展の時代でしたから、フィリピンやインドネシアなどアジアの国々での調査研究が多かった。持続可能な経済発展が重視されるようになると環境問題に取り組みます。日本で97(平成9)年に開かれた京都会議(気候変動枠組み条約締約国会議)には国連大学代表として参加し、京都議定書のドラフト会議にも呼ばれました。

 〈71(昭和46)年、アルバニア決議が引き金となり、国連における「中国」の代表権が中華人民共和国となり、台湾は脱退。72年には日本、79年には米国と断交するなど世界で孤立していった〉

 蒋介石は「2つの中国」は受け入れないとして国連を撤退しました。しかし、蒋介石は台湾を代表していないというのがわれわれ台湾人の主張です。私が国連に勤めたときの気持ちは、ケネディ大統領の就任演説にある「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えましょう」というもの。台湾の状態にかかわらず、国連の仕事を一生懸命やったと思っています。国連メンバーは戦後から今までに約140増えました。これらは戦後、植民地から離脱したり、独立したりしたものです。残念ながら台湾だけが戦後、行く先を知らずに今に至ります。台湾に住む2300万人が国際社会から受け入れられないのは、戦後の世界政治史で一番不幸なことだと思います。(聞き手 金谷かおり)

最終更新:9月15日(木)17時5分

産経新聞