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【歴史のささやき】太宰府にあった千年企業

産経新聞 9月16日(金)7時55分配信

 □西南学院大学名誉教授・高倉洋彰氏

 大阪に「金剛組(こんごうぐみ)」という会社がある。四天王寺建立のため、百済から招かれた大工の1人、金剛重光が578年に創業したと伝えられる。世界最古の企業であり、驚くべき息の長さだ。

 同様に息の長い会社が福岡・太宰府にもあった。観世音寺(かんぜおんじ)金堂の屋根瓦を飾る降棟(くだりむね)の鬼瓦をよく見ると、2面は鬼瓦というよりも、西洋風の風貌をしている。

 普通は見ることはできないが、「一千九百五十年六月」(昭和25年)の修築年と、イタリアで活躍された著名な彫刻家、豊福知徳(とよふく・とものり)氏の名前、そして窯元として太宰府の平井明氏の名前が刻まれている。

 平井家は、太宰府市五条で「平井瓦製造所」を営まれる瓦工だった。屋号は「金屋」だった。その地は「金屋屋敷」と呼ばれ、昔は鋳物屋だったと伝えられていた。金屋の屋号や、庭を覆う鉄滓(てっさい)がその正しさを物語っている。鉄滓とは、日本古来の「たたら製鉄」で出る不純物だ。

 太宰府天満宮には、神幸式などに奉納される「竹の曲(はやし)」という古典芸能がある。竹の曲を奉納するのは、米屋座、鋳物屋座、鍛冶屋座、染物屋座、小間物屋座、相物屋座(魚座)からなる「六座」と呼ばれる組織だ。

 このうち、鋳物屋座が平井氏で、1592(文禄元)年に「鋳物屋平井与作」の名前が残る。

 さらに、天満宮所蔵で、福岡県の文化財に指定された鰐口(わにぐち)の銘文に、「慶長五年」「九州惣官大工平井大炊助藤原種重」の銘がある。慶長5年は「関ヶ原の戦い」があった西暦1600年であり、先の平井与作と平井種重は同時代の一族であろう。鋳物師としての作例は、この鰐口のみだが、平井氏が鋳物座・鋳物屋であったことを実証している。

 記録はさらに、さかのぼる。1189(文治5)年の「真継文書(まつぎもんじょ)」によれば、大宰府鋳物師蔵人、平井宗明が「九州鋳物師政所職」に補任されている。この文書、形式や用語から、偽文書と分かってはいる。ただ、「鋳物師政所職」の意味は、先の「九州惣官大工」に近いことなどから、根拠のある偽文書として『太宰府市史』に採用されている。

 大宰府史跡の発掘調査では、膨大な量の瓦が出土する。この中には、瓦の背(凸面)についた格子目の中に文字が印刻された平瓦や丸瓦がある。

 平安時代に入るころから見られるが、その中に「平井瓦屋」「平井瓦」「平井」の文字を刻する例がある。平井と平井瓦は平井瓦屋の省略で、平井という瓦屋で製作されたことを意味すると考えられる。

 観世音寺には、破損分の補修用の瓦を焼いていたと思われる「造瓦屋」という部門があった。

 観世音寺造瓦屋と平井瓦屋の関係は不明だが、天満宮の六座は中世の平井宗明のころには、観世音寺に所属していた。

 この平井家の子孫は、かつて所属した観世音寺の宝蔵の瓦を製作した後、1959(昭和34)年に廃業された。太宰府にあった千年企業、平井家を長く記憶したいものだ。

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【プロフィル】高倉洋彰

 昭和18年福岡県生まれ。49年に九州大大学院終了後、福岡県教育委員会、県立九州歴史資料館を経て、平成2年から西南学院大教授。弥生時代の遺跡や大宰府のほか、アジアの考古学など幅広く研究。「弥生時代社会の研究」、「行動する考古学」など著書多数。九州国立博物館の誘致にも尽力した。26年3月に西南学院大を退職し、現在名誉教授。前日本考古学協会会長。観世音寺(福岡県太宰府市)住職も務める。

最終更新:9月16日(金)7時55分

産経新聞