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李登輝総統の下でブラックリスト廃止 30年ぶりに台湾に帰る

産経新聞 9月16日(金)17時5分配信

 【話の肖像画】元台北駐日経済文化代表処代表・羅福全氏

 〈国連に勤務していた1980(昭和55)年、対外開放が始まって間もない中国を訪れた〉

 中国から名古屋の国連地域開発センターに派遣された女性がいて、ぜひ中国を見てほしいと招待を受けました。トウ小平(当時の最高指導者)による「改革開放」はまだ始まったばかり。どれくらい貧しいかというと、食堂では「糧票」という配給券が必要でした。カメラを手に王府井(北京の繁華街)に行くと皆、珍しそうに見にきたものでした。

 天安門事件翌年の90(平成2)年には、北京大学で地域開発などに関する講義をしました。講義が終わり学生と一緒に食事に行ったら、彼らが天安門事件の話題を出したのです。最近はどのようなことをしているのかと聞いたら、「小さな瓶を投げつけている」と。これは、中国語では「●小瓶」といい、トウ小平と同じ発音なのです。

 〈台湾では、民主化の父とされる李登輝総統の下で、ブラックリストが廃止される。92年、約30年ぶりに台湾へ帰った〉

 台湾で開かれる学会に招かれました。ただリストの廃止は8月からで、学会は5月。台湾のパスポートは発行されましたが、空港に着いてから2時間待たされました。台北の妻の実家に泊まったのですが、着いた途端に警察が私たちが確実に帰っているかどうか調べに来ましたね。

 母は80年、実家のあった嘉義で亡くなりました。私は0歳で姉とともに父の兄弟の養子となっているので、養母にあたります。養父は私が養子となってすぐ亡くなりました。母は能力のある女性でした。戦後、嘉義に戻ると経営が低迷していた親族の旅館を買い取りました。私がアメリカで台湾独立運動に関わるようになると応援してくれ、私がアメリカで博士号を取ったら周りに自慢していた。亡くなったという知らせを受けても私は帰ることができません。母への気持ちを込めて写経をし、嘉義へ送って一緒に火葬してもらいました。

 母親が違う兄はそのころもう80歳で、私とは23歳の年の差があります。推薦で旧制台北帝国大学に入り、医者になった優秀な人で、子供のころから憧れの存在でした。子供たちも医学部に進学させました。私は医学をやらないで国連の仕事をしてきたわけですが、兄貴は「おまえはよくやったぞ」と褒めてくれました。何十年も台湾に帰らず親孝行もできなかったので、こういわれると何ともいえません。

 〈2000(平成12)年に国連を定年退職。台湾では同年、総統選で台湾本土派の民主進歩党(民進党)から立候補した陳水扁氏が当選し、初の民進党政権が発足。羅氏に駐日代表の話が来た〉

 退職して台湾に戻るつもりでしたが、知人から内々に打診され、私は台湾のためならばやろうと思いました。陳氏が私を選んだ理由は分かりませんが、おそらくアメリカ留学経験者が、私が国連職員として方々で仕事をしていたことをよく知っていたのではないかと思います。代表就任が決まり、再び日本に滞在することになりました。(聞き手 金谷かおり)

●=足へんに登

最終更新:9月16日(金)17時5分

産経新聞