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「おさるのジョージ」初版から75年 作者はナチスから逃れた過去も

ウォール・ストリート・ジャーナル 9月16日(金)16時7分配信

 ナチス・ドイツがフランスに侵攻して首都パリに近づいていた1940年6月、ユダヤ人作家のH・A・レイとマーグレット・レイ夫妻は、間に合わせの部品で組み立てた2台の自転車に乗ってパリから脱出した。自転車の後部にくくりつけたスーツケースには、冬用のコート、食料、水、そして彼らの原稿が入っていた。そのうちの1つが、後に「Curious George」(日本名「ひとまねこざる」と「おさるのジョージ」)として知られるようになる冒険好きのサルの話だった。

 「Curious George」は今年、誕生(米国での初版発表の1941年)から75年を迎える。同シリーズには現在、レイ夫妻やその他の人々が執筆した133のタイトルが存在し、世界中で7500万部が出版されている。年間販売部数は、同シリーズを出版するホートン・ミフリン・ハーコート社の別の人気作家、J・R・R・トールキン(「指輪物語」など)を上回る。

 ホートン・ミフリン・ハーコート社は今秋、2005年出版のルイーズ・ボーデン著「戦争をくぐりぬけたおさるのジョージ―作者レイ夫妻の長い旅」の新版と、シリーズ誕生75周年の記念版である「The Complete Adventures of Curious George」を刊行する。この2冊には、戦時中のレイ夫妻の逃亡に関する新たな詳細や資料が掲載される。

 自身も児童文学作家であるボーデン氏は「夫妻は問題に巻き込まれてもそれを乗り越えた。絵本の中のジョージのように」と話した。

 読者の中にはオリジナルの作品を非難する向きもあった。植民地主義的な要素が見受けられるとの理由(訳注=主人公のおさるのジョージをアフリカから文明都市ニューヨークに連れてきたことを肯定的に描写しているなど)からだった。そこで2006年のアニメ映画では話が修正され、ジョージは捕まえられたのではなく、船にこっそり乗り込んだサルとして描かれている。近年では、より幅広い読者(イスラム教徒を含む)を取り込もうと試みられており、最新作のタイトルは「It’s Ramadan, Curious George」(訳注=ラマダンはイスラム教の断食月)となっている。

 H・A・レイは1898年、ドイツ・ハンブルクに生まれた。本名はハンス・アウグスト・ライアースバッハだった。彼は1925年にブラジル・リオデジャネイロに移住した。その10年後、家族ぐるみでつきあいがあったハンブルクの芸術家、マルガレーテ・ワルドシュタインが彼を追ってリオにやって来た。2人はまもなく結婚し、広告代理店を始めた。妻はマルガレーテという名前をマーグレットに変え、夫は名字ライアースバッハをレイに短縮した。

 夫妻は1936年、ブラジルの旅券を持って、船で欧州を訪れた。遅めの新婚旅行だった(ボーデン氏によれば、この間に夫妻が飼っていた2匹のマーモセット=キヌザルが死んだ)。パリに到着した夫妻は、テラス・ホテルというホテルにチェックインした。数週間の滞在の予定だったが、結局は4年間の滞在となった。夫妻は、漁師、風船売り、サーカスの動物などといった地元の人々や動物のスケッチをしたり、写真を撮ったりした後、子供の本の執筆を2人で始めた。夫がイラストを描き、妻がアートディレクターを務めた。ストーリーは夫妻で一緒に考えた。

 1939年にフランスと英国の出版社が、夫妻の絵本「Raffy and the Nine Monkeys(ラフィと9匹のサル)」を出版した。孤独なキリン(Raffy)が住むところのないサルの一群と出会う話だった。夫妻は同じ年にこの9匹の中で最も小さいサル「フィフィ」に焦点を当てたスピンオフ版の執筆を始めた。

 1940年5月15日、夫はフランスの出版社「Librairie Gallimard」から「The Adventures of Fifi(フィフィの冒険)」とその他2タイトルについて、2万3000フラン(現在の価値でほぼ1万ドル=約100万円)の前払い金を受け取った。これを証明する銀行取引明細書と手紙は現在、米サザンミシシッピ大学デ・グルモンド児童文学コレクションのレイ夫妻のアーカイブに保管されている。

 この前払い金は、ナチスがフランスに侵攻してパリに近づくなか、夫妻がパリから脱出するのに役立った。ユダヤ人たちは難民となって、車、馬車、自転車および徒歩でパリから徐々に脱出しようとしていた。レイ夫妻は自転車を買いに行ったが、タンデム(2人乗りの自転車)しかなかった。試しに乗った妻は、これではダメだと言って拒否した。

 夫が記していた日記によると、夫妻は6月11日に自転車の部品を買った。その翌朝、2人は「自転車で午前5時半にパリをたち、近郊の町エタンプに到着した」。そこで「農場の部屋で寝泊まりした。(農場の)メイドと難民女性と一緒だった」と彼はフランス語で走り書きしている。

 夫妻はフランス中部のオルレアンで自転車とともに列車に乗り、ポルトガルのリスボンまで行った。その後、船でリオデジャネイロに向かい、最終的に1940年10月14日に蒸気船「ウルグアイ号」でニューヨークに到着した。これは、ボーデン氏が調査の過程で見つけた乗船名簿で明らかになった。

 夫妻はニューヨークでグレース・ホガース氏と再会した。ホガース氏は夫妻の作品を出版した英国の出版社Chatto & Windusで編集者として働いていた人物だった。ホガース氏は当時、ホートン・ミフリンで働いていた。同氏は夫妻と4冊の書籍に関する契約を結んだ。夫妻と編集者はフィフィに米国式の名前を付けることを決めた。こうして、1941年に「Curious George」が出版された。

By JENNIFER MALONEY

最終更新:9月16日(金)16時40分

ウォール・ストリート・ジャーナル

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

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昔は街の広場で、現代はYouTubeで。歴史を通じ、公開処刑には必ず人だかりがつきものでした。人が処刑というものを、恐ろしく不快に感じながらも、つい気になって見てしまうのはなぜか。フランシス・ラーソンが人間と公開処刑の歴史、中でも斬首刑に焦点を当てて解説したこのトークは、気分の良い内容ばかりではありませんが、同時に興味をそそること間違いないでしょう。