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“超高速関ヶ原”の裏では何があったのか?

ITmedia ビジネスオンライン 9/17(土) 9:18配信

編集部F: いやぁ、先週(9月11日放送)の『真田丸』がネット上などでかなり話題になっていますね。

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小日向えり: “超高速関ヶ原”のことですね。私もドラマを見てびっくりしました。あの天下分け目の関ヶ原の戦いが、わずか1分足らずで終わるなんて(笑)。

編集部F: 本能寺の変で織田信長が死んだときも、たった数十秒のナレーションだけであっさりと片付けられましたが、今回の関ヶ原の戦いはそれに匹敵しますね。まさか大坂の陣も……ということはないかと思いますが。

小日向: 今回の見せ方について、脚本の三谷幸喜さんをはじめとする制作側はあくまで真田家の視点を守りたかったのと、当時の情報伝達はタイムラグがあったことを示したかったのだと思います。徳川秀忠率いる軍が真田昌幸&信繁親子のいる上田城を攻めた第二次上田合戦が1600年9月初旬で、関ヶ原の戦いは9月15日に起きているので、真田が関ヶ原の状況を知るのは上田合戦が終わるころだったのでしょう。

 例えば、戦国時代小説などを読んでいると、各地で起きているあちこちの戦いを同時に俯瞰(ふかん)することができますが、実際にはそんなことは不可能です。だから真田にとっては「西軍敗北なんてうそでしょ!? こっちは勝っているのに」と、本当に晴天の霹靂(へきれき)だったということが、先週のドラマを見て肌感覚として理解できました。

編集部F: ところで、第一次上田合戦のときはドラマでも派手に描かれていましたが、第二次は淡々と進んだ印象を持ちました。実際にはどのような合戦だったのですか?

小日向: 基本的には第一次と同じく、少しの兵を出して、上田城に敵を引き寄せ撃退するというのを繰り返しました。ただ、史実として分かっているのは、一度は昌幸が降伏すると言って秀忠軍を油断させるも、降伏はせず、逆に「かかって来い」と挑発したため開戦したということです。それ以外はほぼすべて軍記物です。

編集部F: 上田合戦での昌幸の狙いは、やはり関ヶ原へ向かう秀忠軍を足止めして、少しでも関ヶ原で西軍が有利になるよう時間を稼ぐことだったのでしょうか?

小日向: その側面はあるかと思いますが、関ヶ原の戦いがたった1日で終わるとは思っていなかったはずです。結果的に本戦に秀忠軍が間に合わなかったから手柄になっただけで、昌幸も秀忠ももっと長く続くと思っていたことでしょう。そうした意味で彼らにとっても超高速関ヶ原だったわけですね。

編集部F: 関ヶ原の戦いがあっという間に終わったのは、小早川秀秋の裏切りが大きかったのでしょうね。

小日向: それと毛利軍が動かなかったことですね。

編集部F: なぜ動かなかったのですか? 優柔不断だったから?

小日向: 吉川広家が毛利軍を止めていたからです。

編集部F: 理由は何ですか?

小日向: 実は広家は黒田官兵衛・長政父子と仲が良く、調略を受けて徳川軍と内通していたのです。

 最近の説では、秀秋もしびれを切らした徳川家康に鉄砲を打ち込まれて脅されたから寝返ったのではなく、合戦前から内通していたようです。だから松尾山という要の場所に陣取ったのです。元々は別の場所に陣取る予定だったのが、前日に急遽松尾山に変更したそうです。

編集部F: 東軍は前もって画策していたのですね。当然それは西軍も同じですよね?

小日向: あったとは思いますが、寝返りがなければ勝てた可能性は高いです。石田三成もそのように西軍の勝利を計算していたと思います。

 実は関ヶ原で戦う予定はなかったみたいです。大坂城を目指して攻めてくる東軍を最初に大垣城で防いで、それが無理だったら南宮山、そして松尾山と、三段階で防衛ラインを引いていたようです。まさか3カ所すべては突破されないだろうと思っていましたが、それが現実に起きてしまったので、結果的に関ヶ原という場所で野戦になったのです。三成は南宮山の毛利と大垣城や主戦上の西軍(石田隊・宇喜多隊など)で東軍を挟み撃ちする予定でした。

 関ヶ原の戦いの後、三成は「人の心計り難し」という言葉を残しています。三成は数字の計算が得意でしたが、人の心まで計算するのはできませんでした。きっと寝返りなんて想定外だったのでしょうね。切ないです。

編集部F: まさか味方が裏切ると思っていなかったなんて、戦国時代において純粋すぎますね。

小日向: 関ヶ原の戦いでの寝返りといえば、秀秋に続いて、日和見した朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、脇坂安治が東軍に寝返りました。実は戦後の処遇で脇坂だけは所領安堵、ほかの3将は減封やお家取りつぶしなど厳しく処分されました。家康はその場で日和見して寝返った武将を徹底的に罰しているので、脇坂だけが最初から寝返ることを家康に伝えていたのではないかと言われています。味方についた武将でも容赦なく処罰する家康を恐ろしく思うかもしれません。しかし、家康はどさくさまぎれの火事場泥棒のような、不義理な人物が嫌いなのでしょう。その代わり、忠義の士は重んじるし、対処も温かい。そういう懐の深さは、さすが天下人たるゆえんだと思います。

最終更新:9/17(土) 9:33

ITmedia ビジネスオンライン

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