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父の会社再建、多品種生産で成功 日本電鍍工業・伊藤麻美社長

SankeiBiz 9月19日(月)8時15分配信

 貴金属めっきを中心に幅広い分野での表面処理加工を手掛ける日本電鍍工業。1980年代には国産腕時計メーカー各社の指定工場として、高い技術を誇った。だが91年に創業社長が死去、後継社長による放漫経営で経営は火の車に-。その窮地を救ったのは、渡米していた創業者の一人娘だった。

 ◆10億円超す債務

 2000年に同社社長に就く伊藤麻美氏。大学卒業後、大好きな音楽で仕事がしたいと考え、ラジオのディスクジョッキーとして活躍。1997年、30歳になるのを機に宝石鑑定士を目指すべく渡米。現地で一生暮らすことを決意した彼女のもとに、日本から一本の電話がかかる。

 「都内の自宅に会社の抵当権が設定されており、返済のため引き払うことになったので、荷物を全て出してほしい」。帰国後、会社の顧問弁護士や税理士などから会社が存続の危機にひんしていることを知る。やがて会社の状況を知ろうと工場に出向く。そこで働く人の姿を見るうち、「もしこの会社がなくなれば、そこで働く人や家族が路頭に迷う。この会社こそが、いま私が守るべきものだ」。そう感じた伊藤氏は父が創業した会社を継ぐ決心をした。

 創業者の一人娘といえ、当時はめっきのこと、会社のことは何も知らなかった伊藤社長。この時点で10億円以上の債務を抱えていた。取引金融機関へ社長就任のあいさつに行くと、「本当の社長を連れてきてよ」と言われた。「悔しかったけど、同時に『ぜひ、金を借りてください』と言わせてやる」と心に決めた。

 「まずは結果を出すしかない」。伊藤社長は会社の財務諸表を財務担当の社員や税理士の力を借りながらも徹底的に分析。売上高の9割が時計関連で占められていたことを知る。「時計以外からも仕事が取れるようにすれば、経営上のリスク分散にもつながる」と考えた。

 当時はITバブルのさなか。携帯電話や小型端末向けの市場が拡大していたが、そこには飛び込まなかった。同社のめっきは手作業が中心だったため、大量生産ができなかったからだ。

 景気に左右されず、付加価値の高い分野との観点から、たどり着いたのが医療、健康、美容の3分野だった。伊藤社長はこれらの展示会の会場に名刺を持って足しげく通う。いわば飛び込み営業だ。やがて、カテーテルを先導するガイドワイヤとよばれる部品のめっき加工の仕事が舞い込む。他社が何年もかけて挑戦するも実現ができないほどの技術的に難しい案件だったが、「絶対、この仕事をものにする」と、技術陣を説得。数カ月で加工を成功させた。

 ◆就任3年で黒字

 この成功を機に、時計中心から「多品種少量生産体制」にかじを切る。売上高に占める時計の割合は社長就任前の9割から1割に落とす一方、取引先は2500社以上。医療、健康、美容に限らず、宝飾品や楽器、筆記具など多岐にわたる。社長就任から3年目で黒字化を果たした。

 「社員やその家族を守るためにも会社は絶対に存続させるべきだ」と考え、国内での生産にこだわる。だからこそ、社員とのコミュニケーションには気を配る。毎朝、社内を回っては全従業員に声をかける。さらに誕生日にはプレゼントも。「あなたの存在が会社を支えており、感謝の気持ちを伝えたい」と、社長就任時から続けている。また社員が毎年、伊藤社長の誕生会を企画するという。伊藤社長は「社員からも大きなパワーをもらっています」と笑顔を見せる。

最終更新:9月19日(月)8時15分

SankeiBiz