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流鉄流山線の駅に名を残すだけ…わずかに残された遺構が伝える松戸市の小金城

産経新聞 9月18日(日)11時45分配信

 戦国時代、千葉県松戸市北西部の大谷口に広大な小金城があった。面積は東京ディズニーランドとほぼ同じ約48ヘクタール。流鉄流山線の小金城趾駅にその名を残すが、建築物は一切残されておらず、敷地の大半が住宅になったいま全容を知ることは難しい。そこで松戸市は平成9年に北西部分約0・8ヘクタールを「大谷口歴史公園」として整備。空堀や土塁の遺構で、実戦的な「戦国の城」としての姿を垣間見ることができる。

 ■築城は15世紀

 平安時代後期、地方には荘園や郷を単位とする社会が形成され、武士が地域の支配権を獲得していった。そうした時代、下総に大きな力を持ったのが千葉氏一族だ。千葉氏は配下に多くの武士集団を持つ。戦国時代後期、小金城を中心に東葛地域の大半を支配した高城氏もそうした千葉氏配下の一族から台頭した。

 では高城氏はどこから来たのか。九州に勢力を伸ばした千葉氏の一族が松戸に入り、16世紀初頭、次々と市内で築城、最終的に天文6(1537)年、小金城を築いたという説がよく語られる。しかし昭和37年から続く松戸市教育委員会の発掘踏査では、通説より早い15世紀の陶磁器が小金城跡から発見されている。

 松戸市立博物館の学芸員、中山文人さん(54)は千葉氏の重臣だった原氏が15世紀中には小金城を築き、千葉氏一族の中で力をつけた高城氏が引き継いだと推測する。小金城は江戸時代に宿場町として栄える小金地区と同じ台地にある。「小金は中世には『プレ水戸街道』が通り、流通の拠点になっていた。江戸川にも近く人も物も情報も集まる。まず町場があって、そこに通説より早い段階で城が作られたとするのが自然」と中山さんは指摘する。

 ■秀吉に屈し消滅

 小金城主となった高城氏は小田原北条氏の関東北部・東部進出に大きな役割を果たすが、永禄3(1560)年、越後の上杉謙信の関東進攻では北条氏と対決する上杉陣営に。謙信撤退後は北条側復帰とめまぐるしい。戦乱の世では生き残りのため、従う陣営を変えるのは当たり前だった。

 謙信の脅威をはねのけた高城氏だが、最強の敵は西から来る。天正18(1590)年7月、天下統一を目指す豊臣秀吉は小田原城で北条氏を降伏させる。北条側の小金領は接収されて小金城は役割を終えた。

 発掘調査で分かったことは、中に落ちれば動けなくなる畝を底に設けた空堀など厳重な防御施設がいくつも備わっていたことだ。決戦時に近隣住民を収容するスペースもあり、総力戦への備えは万全だった。

 一方、本格的な建物跡は確認できず、草ぶきの低層建物が並んでいたらしい。壮麗な天守閣などとは無縁の、戦いに徹した戦国の城だったようだ。

 ■離散した家臣

 畝堀などが実際に使われたかどうかは確認できない。天正18年の落城でも戦火に焼かれたかどうかは不明だ。700騎といわれた高城氏の軍勢のその後も「帰農して豪農・有力者として続いた一部以外はほとんど分からない」(中山さん)。

 明らかなのは、小田原城籠城(ろうじょう)のため不在だった小金城主・高城胤則(たねのり)は生き延び、慶長8(1603)年に京都で死亡したことだ。「資料分析を進め、小金に生きた人の『顔』が少しでも見えるようにできたらうれしい」と中山さんは時空を越えた夢を語る。

 大谷口歴史公園の畝堀跡は深く暗い。400年以上たっても、戦いのための施設であることはすぐに分かった。高層建築のない昔、小金の台地からの見晴らしは今以上にすばらしかったはずだ。小金城最後の日、城内の人々はどんな思いで眺めたのだろう。(千葉総局 江田隆一、写真も)

最終更新:9月18日(日)11時45分

産経新聞

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