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なぜ「関ヶ原の戦い」は起こり、家康が圧勝したのか?

AbemaTIMES 9/18(日) 22:22配信

NHKで放送されている堺雅人主演の大河ドラマ『真田丸』。9月11日に放送された『勝負』では、関ヶ原の合戦時に、信繁ら真田家の面々の意に反し、開戦早々にして石田三成率いる西軍が惨敗を喫するという一幕があったが、そもそもなぜ、この関ヶ原の合戦が発生し、家康の圧勝という形で終わることとなったのか。

豊臣家を一代で“天下一ファミリー”へと台頭させた秀吉によって召し出され、幼くしてその家臣となった三成は、実務家として若くしてその頭角をあらわし、秀吉亡き後も同家の重臣として活躍した人物として知られている。
しかし、当時の豊臣家においては、そんな三成とは別に、最大級の権力を持つ外様の家康が内大臣として権勢を奮い、建前上は“幼君・秀頼のサポート”という体をとりつつも、実際には今にも天下人の座を簒奪しかねない素振りを見せ始めた。
またそれと並行する形で家康は、かねてよりその温度差を感じさせていた三成と、加藤清正や福島正則といった三成の同輩である秀吉股肱の重臣たちとの関係に乗じて亀裂を生じさせて、島津や細川といった有力大名家に対しても接近するなど、着実に天下簒奪のための準備を進めていたのだ。そして、そんな矢先に起こったのが、あの関ヶ原の合戦である。

秀吉の死後、その後継者である秀頼をさしおいて我が物顔に振舞う家康に対し、豊臣家に対する一途な忠義で仕える三成が面白く思うはずもない。というのも、前述のとおり三成は、生え抜き組の中でも出世頭で、企業でいえば豊臣秀吉という創業者社長によって採用され、常にその傍らで秘書的な役割を担いつつ、秀吉の意向を実現するために必要な指示を、多くの社員(家来)たちに伝えてくる役割を担ってきたという、“親族企業の大番頭”的なポジションの人物。
それに対し家康はというと、豊臣家にとっては同じ業界で絶えずシェアを争ってきた元・ライバル企業の社長ともいうべき人物で、秀吉の存命時は、家康が表向きその傘下に入り、秀吉側もまた、家康に対して重役の中でも筆頭格のポジションを与えることで、巨大なファミリー企業・豊臣の新体制づくりを進めてきた・・・というような構図となっているのだ。極端な喩えかもしれないが、少なくともそう考えることで、関ヶ原合戦に至るプロセスが、現代の我々にとっても多少は理解しやすくなるだろう。

ところが、そんな家康はかつて豊臣グループと衝突していた徳川家ごと、巨大な豊臣グループへと吸収されたにもかかわらず、秀吉亡き後に、今度は自分が豊臣ファミリーの実質的なトップに立つことで、内側から豊臣家を吸収し返すという形を狙っていたのだ。先述したように、家康は三成以外の豊臣家の生え抜き組を篭絡しては、少しずつグループ内における自派閥を成長させ、本来であればグループ全体における中心的な人物であるはずの三成サイドを、逆に少数派へと押し込むように画策していたのである。
創業者社長的な存在の秀吉への忠義から、その亡き後も、跡継ぎである若社長・秀頼を中心に守り立てて、「豊臣」という看板を守り抜こうとする三成と、かつての“吸収劇”すら「なかったこと」にせん勢いで、豊臣グループ全体を手に入れようと画策しまくる家康・・・天下分け目の大戦として知られる関ヶ原の合戦は 、こうした現代の世におけるビジネスの場面でも、吸収合併などを経て起こりがちな事象が頻発していたのである。

関ヶ原の合戦前に、石田方・徳川方双方が、各地の諸大名をお互いの陣営へと誘うために発した書状などを見るに、その様子は大企業における株主総会直前の委任状獲得合戦さながらのもの。すべての歴史ドラマが必ずしもそうであるとは言えないが、少なくとも『真田丸』に代表される関ヶ原の合戦を描いた歴史モノは、その“決戦”へと至るプロセスを見るに、単なる歴史ドラマ的な要素だけではなく、ビジネスドラマ的な要素を持った作品になっていると言えるのかもしれない。

最終更新:9/18(日) 22:22

AbemaTIMES