ここから本文です

<ジャカルタ事件>過激派事件初の裁判員裁判 21日初公判

毎日新聞 9月19日(月)8時30分配信

 1986年にインドネシアの日本大使館に迫撃弾が撃ち込まれた「ジャカルタ事件」で、殺人未遂罪などに問われた元赤軍派、城崎(しろさき)勉被告(68)の公判が21日から東京地裁で始まる。過激派の公安事件で初の裁判員裁判となる。城崎被告は日航機がハイジャックされた「ダッカ事件」(77年)で「超法規的措置」により獄中から釈放され、出国した。空白の年月をどう語るのか注目される。【近松仁太郎】

 城崎被告は金融機関を襲撃する「M作戦」に関与したとして、71年に強盗傷害容疑などで逮捕され、懲役10年の判決を受けて服役した。

 77年9月、インド上空で日航機が乗っ取られる事件が起きた。「日本赤軍」を名乗る犯行グループが声明を出し、人質と引き換えに獄中の城崎被告ら赤軍派などのメンバー9人の釈放を要求。城崎被告は釈放されて同年10月に出国した。

 今回罪に問われている「ジャカルタ事件」は、その9年近く後に起きた。86年5月14日、ジャカルタ中心部のホテル8階客室から迫撃弾2発が発射され、1発が日本大使館の日よけに、もう1発は隣接する旧ソ連大使館の敷地内に着弾した。いずれも不発で、けが人はいなかった。同時刻、ジャカルタの米国大使館にも同型の迫撃弾が発射され、カナダ大使館前の車が爆破された。

 日米捜査当局は、いずれの事件も同一犯とみて捜査。地元警察がホテル室内に残っていた缶などから採取した指紋が城崎被告と一致したため、「日本赤軍のテロリスト」として国際手配した。

 96年9月、米当局はネパールで城崎被告を拘束した。城崎被告は無罪を主張したが、米連邦地裁は98年2月、米国大使館を襲撃した殺人未遂罪などで禁錮30年の判決を言い渡し、その後確定した。ただ、米国では日本大使館襲撃については起訴されなかった。

 城崎被告は服役後、模範囚として刑期が短縮され、昨年1月に釈放された。同年2月に日本へ送還されて逮捕され、日本大使館を襲撃した殺人未遂罪などで起訴された。公判で「当時、ジャカルタにはいなかった」と無罪を主張し、検察側と全面的に争う構えだ。

 ◇「空白の年月語れ」

 元連合赤軍メンバーの植垣康博さん(67)は、1969年から赤軍派で活動。「M作戦」実行中の71年春、愛知県内のアジトで同派のリーダー格だった城崎被告と出会った。黒縁眼鏡で、近寄りがたかったという。

 城崎被告が逮捕される一方、植垣さんは赤軍派に他の過激派が合流した「連合赤軍」に参加。72年になってM作戦に絡む強盗容疑などで逮捕された。71年から72年にかけ、群馬県の山中で12人が「処刑」などと称して殺害された山岳アジト事件に関与したとして殺人罪にも問われた。

 77年9月に日航機を乗っ取った「日本赤軍」が釈放を要求した9人の中には、植垣さんの名前もあった。植垣さんは東京拘置所で弁護士から「奪還指名」を伝えられた。「自分は連合赤軍事件の総括が必要だ。出ない」。仲間内でなぜリンチ殺人が起きたのか、裁判を受けながら考え続けていた。

 無関係の人を人質に取る手法に反感もあった。「裁判を投げ出すわけにはいかない」。乗っ取りの犯行グループにメッセージを書いた。数日後、福田赳夫首相(当時)の「人命は地球より重い」との言葉とともに城崎被告ら6人が釈放され、出国したと新聞で知った。

 その後、植垣さんは懲役20年が確定。98年に出所後、故郷の静岡でスナックを経営する。

 出国から39年後に裁判を受ける城崎被告について「自分もそうなっていたかもしれない」とも思う。

 城崎被告が日本赤軍への参加を否定して無罪主張することについて、植垣さんは「彼はかつての仲間の殺し合いに衝撃を受けたはずだ。日本赤軍で戦う気になれただろうか」と理解を示す。

 一方で、「歴史の証言として、出国後の中東やネパールでどう生きてきたのか語ってほしい」という。できる限り、法廷に足を運ぶつもりだ。【伊藤直孝】

 【ことば】日本赤軍

 赤軍派だった重信房子受刑者(70)が、海外に革命拠点を求めて1971年に出国後、同派メンバーらと結成した国際テロ組織。在マレーシア米大使館を占拠したクアラルンプール事件(75年)など数々の事件を起こしたとされる。メンバーの多くが拘束されたが、現在も7人が国際手配されている。重信受刑者は2001年に解散を表明したが、警察当局は存続しているとみている。

最終更新:9月19日(月)16時8分

毎日新聞