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船舶の見込み生産で巨利 もうけを美術品コレクションへ 松方幸次郎(中)

THE PAGE 9月23日(金)15時23分配信 (有料記事)

 川崎造船所初代社長・松方幸次郎は、第1次世界大戦での需要を見越し、当時標準的な貨物船とされていたストックボートを建造し、欧州で販売しました。一方、欧州の美術品を買い集めていたことも知られていますが、海外に流出していた価値ある浮世絵の里帰りにも貢献しました。大戦バブルの最中、世界を相手に松方はどのような投資戦略に出たのでしょうか? 市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

  
  造ったそばから売れて、値が上がるストックボート

 川崎造船所初代社長・松方幸次郎が欧州大戦中の英国・ロンドンに出掛けるのは大正5年のことだ。“華麗なる欧州行脚”として語り草になっているが、美術品の買い付けが目的ではなく、ストックボートの宣伝、売り込みと世界大戦の行方を探るためであった。

 松方が造ったストックボートは合計96隻にのぼるが、船舶不足の欧米からは買い手が殺到した。だが、大戦後の反動の恐ろしさを熟知する松方は全社員に向かって進軍ラッパを吹き鳴らしながらも、どこで退却するか、そのタイミングを見計らっていた。

 しかし、進水した船がその日のうちに値上がりし、建造費が1トン当たり60円の船が400円の高値を呼ぶのだから笑いが止まらない。反動の恐さなどつい忘れ勝ちとなる。古来、バブルはその渦中にある間は自覚することができない性質のものである。夢がさめて初めてそれがバブルであったのかと気付くのだ。

 ロンドンで川崎造船所の船舶の売り込みを担当するのは鈴木商店のロンドン支店長高畑誠一である。高畑が「売り時じゃないですか」と持ち掛けても、松方は「いや待て、戦争は長引く。待てば、待つほど高くなる」と売り渋る。高畑も名うての勝負度胸の良さで知られているが、松方は高畑以上に楽観派であり、強気の人であった。

 2人の勝負師はツーといえばカーの間柄となる。1917(大正6)年、日本で進水した船舶の37.7%を川崎造船所が占めた。ストックボートの威力を見せつけた。このころ川崎造船所の従業員は2万1000人に膨れ上がる。松方が川崎造船所を引き受けた時は600人だったから、20年間で35倍に増加した。ドイツ軍の潜水艦(Uボート)が無差別攻撃を仕掛けるようになると、川崎造船所は3交代でフル操業体制をとるが、それでも需要に追い付かない。
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最終更新:9月23日(金)15時23分

THE PAGE