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「阿Q」の呪縛は続いている 魯迅没後80年、生誕135年にして中国社会の病巣はなお変わらず

産経新聞 9月22日(木)10時5分配信

 近代中国の文豪、魯迅がぜんそく発作によって上海市内で亡くなったのは1936年10月19日。55歳だった。今年は没後80年、生誕から135年にあたる。

 魯迅が晩年を過ごした旧居が市内の山陰路に残されている。1930年代、数万人の日本人が暮らしていた“日本租界”とも呼ばれた虹口(ホンキュ)の一角にある、3階建てレンガ造りの瀟洒(しょうしゃ)なアパートだ。

 山陰路はかつてスコット路と呼ばれた。旧居から通り沿いに歩いて数分先、現在は四川北路となっている場所に、魯迅が通った「内山書店」の所在地を示すプレートがかかっている。

 日本人の内山完造(1885~1959年)が開いた書店で、日中の文化人が集まるサロンとなり、プレートには魯迅と内山の2人の姿が刻印されていた。

 初秋の週末、魯迅をしのぶ散歩に出たのは、魯迅が作品を通じて訴え続けてきたことが、いまなお指導者には届いていないのではないか、と感じたからだ。

 紹興酒で知られる浙江省紹興で1881年9月25日に生まれた魯迅(本名は周樹人)。医学を志して1905年に初の中国人として仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学したが、当時、虐げられていた中国人の姿をみて、医学よりも「むしろ最初に果たすべき任務はかれら(中国人)の精神を改造することだ」(短編集「吶喊(とっかん)」の自序)との思いを強くし、文芸の道から「中華民族の覚醒」を求めようとした。

 日本という外の世界から俯瞰(ふかん)して、当時の中国人と中国社会に巣くう旧態依然とした考え方の弊害が、くっきり見えたのだろう。

 住む家も金もなく、読み書きもできない貧乏人の阿Qという人物に、当時の中国人の姿を投影した代表作の「阿Q正伝」にこんな下りがある。ケンカに負けた阿Qは「倅(せがれ)にやられたようなものだ。ちかごろ世の中がへんてこで…」と周囲に言い訳するうちに気分が良くなり、逆に意気揚々と引き上げていく。魯迅は「精神的勝利法」と書いた。

 だが、「いまも北京(中国当局)が行っていることは自己陶酔ともいえる『阿Q精神』そのものだ」と拓殖大学海外事情研究所の澁谷司教授は考えている。

 今年7月、南シナ海をめぐるハーグの仲裁裁判所の裁定で中国の主張が全面否定されたことを受け、王毅外相は「手続きは終始、法律の衣をかぶった政治的な茶番だった」と批判。元国務委員(副首相級)の戴秉国(タイ・ヘイコク)氏は、「なにも重大なことではない。ただの紙くずだ」とまで切り捨てた。

 中国外務省は、「裁定は無効で拘束力はない。国連海洋法条約の完全性と権威性を損ない、中国の締約国としての権利を著しく侵害した」と非難。「ちかごろ世の中がへんてこで…」と国際法を無視し、自らを勝利者と位置づけている。

 魯迅が心から訴えたかった覚醒を、その後の指導者はどこまで理解したか。

 愛知大学現代中国学部の樋泉克夫教授によれば、新中国成立後の50年代、「いま魯迅が生きていたら」と尋ねられた毛沢東が、「あんなうるさい奴が生きていたら、いまごろは牢獄(ろうごく)か死刑だ」と答えたという。

 かつて上海で魯迅は、中国社会をどう近代化すべきか議論も重ねた。四川北路に接する多倫路に、数人の新聞記者らを前に話す魯迅の姿を再現した像が置かれている。阿Qの呪縛からなお逃れられない現代の指導者。没後80年を契機に、改めて魯迅の声に耳を傾けてみてはどうか。(上海 河崎真澄)

最終更新:9月22日(木)17時40分

産経新聞

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

斬首動画が何百万回も再生されてしまう理由
昔は街の広場で、現代はYouTubeで。歴史を通じ、公開処刑には必ず人だかりがつきものでした。人が処刑というものを、恐ろしく不快に感じながらも、つい気になって見てしまうのはなぜか。フランシス・ラーソンが人間と公開処刑の歴史、中でも斬首刑に焦点を当てて解説したこのトークは、気分の良い内容ばかりではありませんが、同時に興味をそそること間違いないでしょう。