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巨人の元球団代表・山室寛之さん「軍部の圧力の中で懸命に続けた野球」

スポーツ報知 9月22日(木)15時0分配信

 プロ野球・巨人の元球団代表・山室寛之さん(74)が「背番号なし 戦闘帽の野球 戦時下の日本野球史1936―1946」(ベースボール・マガジン社、2484円)で戦時下の野球史をつづっている。戦争が泥沼化し軍部の圧力がかかる中、選手、関係者は懸命に野球を続けようとしていた。山室さんは新聞記者として事実を丹念に拾い上げ、野球に一筋の光を見いだした男たちの苦労を描き出している。(久保 阿礼)

■中学生が記録

 新聞記者を引退後、地方の図書館などに足を運び、数多くの関係者に会って野球史を発掘してきた山室さんはこれまで光が当たっていなかった歴史に出会うことができたという。これが執筆のきっかけになった。

 「大阪で発行されたタブロイド判『体育週報』には1944年正月に関西の4球団が行った12試合の記録が残されていました。また、終戦を迎える45年正月には野球報国会関西支部が臨時編成した2球団による8試合が行われ、阪神の若林忠志さん(投手、監督)と交流があった野球好きの中学生、伊藤利清さんが全試合を記録していました。伊藤利清さんのご遺族から試合の模様を記した日記を拝見し、ご遺族が甲子園歴史館に寄贈したスコアブックも突き合わせて当時の状況を書きました。戦線の拡大で学生野球が中断される中、日本で唯一行われていた野球の記録が全くないのはファンとしては寂しいものですからね」

■「よし、一本」

 戦前は東京六大学など学生野球が主流だった。プロ野球の歴史をひもとくと、34年12月に大日本東京野球倶楽部(現在の巨人)が結成されたのを契機に、36年までに7チームによる日本職業野球連盟が創設された。その後は、国家改造を目指す陸軍青年将校が陸軍部隊を率いて2・26事件を起こし、日中戦争へと突入していく。

 戦線が泥沼化した43年1月、愛知県議会では、敵国スポーツの象徴として野球排撃を決議。文部省や陸軍からも国民的娯楽に圧力がかかる異様な時代だった。ストライクが「よし、一本」と変わり、背番号は「見せるスポーツの象徴」としてなくなった。伝説の投手沢村栄治とそのライバル、阪神の景浦将…。戦闘帽をかぶった選手たちは空襲警報が鳴り響く中、試合を続けた。

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最終更新:9月22日(木)15時0分

スポーツ報知

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