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六甲山開祖の碑、大戦前夜に破壊 排英運動矛先に

神戸新聞NEXT 9月23日(金)7時30分配信

 太平洋戦争の開戦前夜、英国に反発する大規模な「排英運動」が全国で巻き起こった。中心地となった神戸で、住民らが六甲山上にあった英国人の顕彰碑を壊した経緯について明らかにする当事者の手記が初めて見つかった。碑が壊された時期は戦時中との説が定説となっているが、実は戦前だったことが判明。排英運動は日本を開戦へと導いた要因の一つとされ、それを象徴する出来事だったことがうかがえる。

【写真】見つかった神戸史談会の会報

 手記はA5判の「六甲開祖之碑を倒すまで」。自身の祖父も破壊に関わったとみられ、六甲山の研究を続ける西宮市の会社員森地一夫さん(56)が古書店で見つけた。郷土史研究会「神戸史談会」の役員が1942(昭和17)年の会報に寄稿した回想録だが、同会には残っていないという。

 破壊は開戦約1年前の40(同15)年11月19日で、戦争末期の45(同20)年2月に神奈川県で起きた「ペリー上陸記念碑」破壊の動機になったと記す。

 ただ、六甲開祖之碑は戦後に「戦時中の42年に敵国の碑として壊された」などの伝承が広まり、碑の跡地に近い兵庫県立六甲自然保護センターや複数の文献が今もこの紹介を続ける。

 碑は明治期に六甲山を開いた英国人アーサー・ヘスケス・グルーム(1846~1918年)を地元の村々が顕彰。手記は排英運動が激化する中、「グルームの六甲山開拓は国際条約に違反していた」という同会役員らの主張が支持を広げ、葛藤する当時の有野村(現・神戸市北区有野町など)議会が碑の破壊を決めた経緯を明かす。主張には、神戸開港から続いた不平等条約や西洋人による経済支配への根深い不満もにじむ。

 神戸大の須崎慎一名誉教授(日本近現代史)は「碑の破壊は『戦中だから仕方ない』とすることで、連合国側からの責任追及を免れようとした人々がいたのでは」と指摘。「排英運動は結果として、英国と結び付きの強い米国による日米通商航海条約の破棄通告をもたらし、開戦に至らせた要因の一つ。手記は当時の空気を生々しく伝えている」と話す。(安藤文暁)


【排英運動】 1937(昭和12)年からの日中戦争が泥沼化し、英国が中国国民党軍を支援したと流布される中で始まった。神戸では4千人超の西洋人居住地として、排英を唱える集会が全国最大規模に拡大したが、史実はよく知られていない。

最終更新:9月23日(金)10時35分

神戸新聞NEXT