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演出とはなにか? 約100インタビューを経た『怒り』李相日監督の現在の“答え”

dmenu映画 9/27(火) 10:08配信

映画『怒り』の撮影現場。「もっといい方法があるのではないか?」「これができることのすべてなのか?」。時に態度で、時に相応の言葉にして、李相日監督は俳優やスタッフに問い続けたという。問う一方で監督自身、“腹に落ちる”まで粘り続けた。俳優とスタッフが、その問いと粘りに応えようとすればするほど、撮影現場は過酷になっていったに違いない。「監督のこだわりはモノを作る人間であれば当然の欲求である」と、この映画の音楽を手掛けた坂本龍一はいう。

残忍な夫婦殺害事件から一年。千葉、東京、沖縄に素性の知れない3人の男が現れ、その地で静かに人間関係を育んでいた。愛する人、信頼する人となった男たちは犯人なのか――? 李相日監督に、こだわり、粘り抜いて映画として成立させたものとは? 監督にとって“演出”とは? など聞いた。

Q: 原作者の吉田修一さんですら「映画にしづらい小説」とおっしゃっていますが、なぜ「怒り」を撮ろうと思ったのでしょう?

A: のっけから一番言葉にしづらいところを(笑)。うーん。……言葉や映画にするのが難しい、目に見えない問題が、今、いろいろな形で表に出てきていますよね。それらをどこかで映画にしなければと思っていましたが、映画にはできても、エンタメに(昇華)するというところが難しくて止まっていたんです。でも吉田さんの「怒り」は、その壁を見事に超えてきた。これは撮らなければならないだろうと……。

Q: 『悪人』(10)は吉田さんとの共同脚本でしたが、本作では単独で脚本を担当された。書くうえで、吉田さんと相談された部分はありますか?

A: 原作に書かれていない、犯人の見解というか、動機など、そういった書かなかった部分を周辺でどう肉付けしていったのか、結果的に脚本には落とし込みませんでしたがうかがいました。原作に描かれていなくても、映画では描かないと説得力が生まれない部分もある。犯人は現代が生み出した怪物ではなく、一人の人間。そこにどう説得力を持たせられるか。社会が窮屈になってきたから、という一言で括るのではなく、納得できるあり様を描きたかった。そうしなければ、映画は完結しないと思っていました。

Q: おっしゃるとおり、この映画では、そのとき犯人が一番深く思い詰めていた感情の発露として“殺人”を描いており、 “理由”こそ描かれませんが、そこに至る行動にこそ映画のテーマが隠されているように思いました。

A: 殺人犯の心根にある怒りとはどういうものなのか? 怒りや憎悪、悪意の塊そのものが膨れあがって、彼を呑み込んでしまうイメージというか。役者とは撮影の段階で人を殺す瞬間の感情までは分からないけど、そこに至るまでの道筋の話はかなりしました。言葉にするとすごく安易な答え方しかできないんですけど、何を望んでいた人なのかを理解しないといけないと思っていた。“彼”の怒りは結果としては、自分に対しての怒りだと思う。彼が人とどうかかわることを望んでいたのか、自分の望み通りにならず、欲しいものを手に入れることができない彼が、本当に手に入れたいと思っていたものは何だろうと考えていくと、この人物のなかでも人を殺した瞬間は空白なんだろうと思いました。ずっと埋まらないというか。もし出会いが犯行前であったなら、殺人は犯さなかったかもしれない。逆に言うと、ずっと空白にしていたことは、出会いによって処置せざるを得なくなってくる。どこまで行ってもやってしまった自分に怒りを持っている。犯した行為への贖罪というより、やってしまったことで自分の人生が壊れたことに怒りを持っているというか。

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最終更新:9/27(火) 10:08

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