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元祖、街歩きの達人「永井荷風」が晩年愛した街、市川

SUUMOジャーナル 9/27(火) 7:30配信

テレビでは「ブラタモリ」「モヤモヤさまぁ~ず2」などの街歩き番組が絶好調。書店には地図や地形散歩コーナーがつくられ、直近ではポケモンGOが社会現象を巻き起こしました。「歩く」がブームになっているこのごろですが、じつは、昭和の小説家・永井荷風こそ元祖、街歩きの達人というべき人物なのです。そんな荷風が晩年愛した街が、千葉県の市川市でした。

■100年前に、古地図歩きを楽しんでいた

永井荷風(1879~1959)といえば、自身のアメリカ滞在をモチーフに書いた短編集『あめりか物語』(博文館、1908)が有名ですが、『日和下駄』(籾山書店、1915)をはじめとした数々の散策記を残しています。昭和初期の急速な開発とともに失われていく江戸の風情を書き留めたこれらのエッセイは、資料性が高く、街歩きのネタ本や都市論として注目し直されており、荷風の足跡をたどる街歩き本や副読本も数多く出版されています。

「文豪誰それの歩いた街」などと言うとおカタく感じるかもしれませんが、永井荷風の散策記は、そのまま現代のバラエティ番組や街歩き雑誌のネタとして使えるのではないかというほど切り口がイマドキです。
例えば、路地や道端の地蔵など誰も見向きもしなかった風景に注目したり、放水路がどこから来てどこまで行くのかたどってみたり、江戸時代末期の地図を持って歩いてみたりといった、今でいう「古地図歩き」のようなことまでやっていました。

■戦火に追われ、千葉県市川市に流れ着く

執拗(しつよう)に東京を徘徊(はいかい)していた永井荷風でしたが、昭和20年3月10日、ついに東京大空襲で被災してしまいます。以降、知り合いのつてをたどって全国を転々とし、昭和21年1月、辿りついたのが千葉県市川市でした。荷風は市川の風景について、次のように語っています。

「戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるやうな好風景の残つてゐたのを知つたのは、全く思ひ掛けない仕合せであつた。
 わたくしは近年市街と化した多摩川沿岸、また荒川沿岸の光景から推察して、江戸川東岸の郊外も、大方樹木は乱伐せられ、草はふみにじられ、田や畠も兵器の製造場になつたものとばかり思込んでゐたのであるが、来て見ると、まだそれ程には荒らされてゐない処が残つてゐた。心して尋ね歩めばむかしのまゝなる日本固有の風景に接して、伝統的なる感興を催すことが出来ないでもない」(『葛飾土産』中央公論社、1950)

仮住まいのつもりで期待せずに来てみたものの、市川の地に思わぬ癒やしを発見できたらしいことが読み取れます。荷風は、市川を歩き『葛飾土産』という短い散策記にまとめ、それが一段落すると京成線に乗って、お気に入りの街・浅草に通う日々を送るようになります。結局、昭和34年、79歳で死去するまでの13年間を市川で暮らしました。
荷風が住んでいたのは、現在の京成線市川真間駅~菅野駅~京成八幡駅の北側のエリアになります。その間3回も同エリアで引越し(うち2回は同じ町内)をしていることからも、この地に愛着があったことは間違いないでしょう。

このあたりは、市川市のなかでも閑静な昔からのお屋敷街として知られており、郊外のありふれた住宅地とは少し趣が異なります。なかでも荷風が最期に居を構えた京成八幡駅付近には、晩年の荷風の散歩コースだったクロマツの並木や白幡天神社、亡くなる前日にカツ丼(!)を食べに来たという大黒家などが残っており、少しだけ当時の雰囲気が感じられるようです。

【画像1】緑が茂る白幡天神社の境内。幕末から明治中期にかけて活躍した絵師・柴田是真画の連句額(県文化財)を所蔵していることでも知られる(写真撮影/中村宏覚)

【画像2】京成八幡駅前にある永井荷風が通った「大黒家」。線路を挟んだ反対側には再開発によって京成電鉄の本社が移転してきた(写真撮影/中村宏覚)

京成八幡駅から南側は、ここ数年、再開発が完了してずいぶん都会的に、そしてにぎやかになりましたが、荷風の散歩道はそれとは対照的。あえてそんな場所に住むのもいいかもしれません。

構成・取材・ 文/鈴木さや香

●SUUMO 次にくる住みたい街はここだっ ~本八幡編~

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最終更新:9/27(火) 7:30

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