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イケメン過ぎる明治の偉人、子孫が語る「骨太の人生」 手製の爆弾抱えて上京、圧政に抵抗

withnews 10/2(日) 7:00配信

 高知の自由民権運動家で歯科医の織田信福(のぶよし)(1860~1926)が、「イケメン」とネットで注目されている。「明治のオダギリジョー」という声も。いったいどんな人だったのか? 子孫が今も高知市内で歯科医院を営んでいると知り、訪ねてみた。(朝日新聞高知総局記者・佐藤達弥)

【画像】子孫が秘蔵していたイケメン写真 明治の偉人・織田信福 アンニュイな表情も

太い眉毛、真っすぐなまなざし

 信福が1925(大正14)年に建てた織田歯科医院の建物は、今も高知市の中心街にある。戦時下の空襲でも焼け残った。

 その隣に新築した建物で、院長の織田英正(ひでまさ)さん(70)が診察している。信福のひ孫だ。

 写真の現物を見せてもらった。後ろで結んだ髪があふれ、無造作に広がっている。太い眉毛、真っすぐなまなざし。腕を組み、意志が強そうだ。

手製の爆弾を持って上京

 人となりを尋ねると、「僕が生まれる前に亡くなっているので面識はありません」。そう言って、「高知県医師会史」「高知県歯科医師会七十年史」といった分厚い本を本棚から引っ張り出してきた。

 一連の資料や英正さんによると、信福は高知県西部の宿毛に土佐藩士の子として生まれた。東京の歯科医の下で学んだ後、今の高知市内で歯科を開業した。

 当時、医師の中には知識人として民権思想を受け入れ、運動を支えた人たちがいたという。信福もその一人で、「七十年史」には「直情径行、熱血溢(あふ)るる快男児」と書かれている。

 各地の民権家が上京して言論の自由や税の軽減などを訴えていた1887年には、一緒に自由民権運動をしていた若い医師らと手製の爆弾を持って上京した。

政府の厳しい圧迫、退去命令

 当時、政府は運動に厳しい圧迫を加えていた。「高知県歯科医師会百年史」は、信福が同志の若い医師を集めて「刀圭(とうけい)自由党」をつくり、「政府に対して不穏な直接行動に出ようとしていた」と記す。

 刀圭とは医師のことだ。「七十年史」は混乱の社会情勢が「彼らを駆って、ここに至らしめたものである」と擁護する。

 だが、爆弾が実際に使われることはなかった。政府が秘密集会などを禁じる保安条例を作って、運動への弾圧を強めたからだ。

 信福たちも、東京に着いてまもなく当局から退去命令を受けた。帰路の道々、爆弾を捨て、残りのすべては琵琶湖に投げ捨てたという。

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最終更新:10/2(日) 8:18

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