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[フォト] 25年前、韓国警察の遺体強奪、その時を覚えていますか

ハンギョレ新聞 9/29(木) 6:48配信

 韓国の検察と警察は、二度にかけて農民の故ペク・ナムギ氏の解剖検査令状を請求しました。
 医療界ですら、医学的観点から解剖検査の不要性を指摘しているにもかかわらず、未だに解剖検査に固執する理由は何でしょうか?

 それを探るために、過去に解剖検査がどのように政府によって悪意的に利用されたのかを振り返って見ます。

 朴昌洙(パク・チャンス)氏、彼は釜山機械工高を卒業し、22歳だった1981年8月に韓進重工業の前身の大韓造船工事に配管工として入社した。

 そして1986年には弁当拒否闘争を主導した。50年余り、食堂もなく更衣室や工場の角で、髪の毛やちり紙が混じった弁当を食べてきた労働者が、「俺たちは犬の飯を食べることはできない」として3日間にわたり弁当を投げ捨てた。

 会社側は結局、4日目に食堂を作ると約束した。そして、韓進重工業では民主労組を作った。

 1990年、組合員の93%という圧倒的な支持で大韓造船工事の労組委員長に当選する。朴昌洙は1991年2月、議政府(ウィジョンブ)のタラク院キャンプで開かれた連帯会議修練場で、急襲した警察に踏みにじられ連行された。その後、長安洞(チャンアンドン)の対共分室を経てソウル拘置所に収監された。

 拘置所内で故カン・ギョンデ烈士(白骨団に鉄パイプで殴られ亡くなった明知大の新入生)他殺事件に抗議する断食闘争をしている間の同年5月4日、疑問の負傷を負って安養病院に運ばれた。頭を38針も縫う重傷だった。

 病院に運ばれた後、5月6日未明、彼は安全企画部の要員について行き、数時間後に病院の裏庭で変死体で発見された。

 朴昌洙烈士の突然の死で、造船所の労働者は全面ストライキを宣言し上京し病院に集まり、遺族、社会団体、学生たちも共に病院を守った。

 次の日の5月7日、警察は遺体が安置された安養病院に白骨団と戦闘警察22個中隊を投じた。警察は催涙弾を撃ち込み、霊安室の壁をハンマーで壊して入ってきて故人の遺体を奪っていった。

 その後、警察は強制的に解剖検査を実施し、労組活動と拘置所生活に嫌気を感じて投身自殺したとし、死因を「単純墜落死」と発表した。

以上、記事出処:クォン・ヨンスク( 1991年朴昌洙の死と労働の挫折)、キム・ジェジン(必ず知らなければならない悲しい大韓民国の話)

最終更新:9/29(木) 6:48

ハンギョレ新聞