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もっと知りたい北方領土(4) 突然やってきたソ連兵に島は奪われた

THE PAGE 10/5(水) 17:31配信

 終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、まだ平和条約も、北方4島の返還も実現していません。そうした中、9月に行われた日露首脳会談で、12月にプーチン大統領の来日が決まり、領土交渉の進展が期待されています。

【図解】北方領土の択捉島はどれくらい大きいか

 あらためて、北方領土とはどんな場所なのか、どのような自然や産業があったのか。どのような生活を送っていたのか。そして、4島をめぐる今の人々の思いなどを、紹介していきます。

 第4回は、ソ連占拠による島からの強制退去です。

終戦の知らせにざわめいた島民たち

 1945(昭和20)年8月15日、終戦の日。歯舞群島のひとつ、多楽島で当時国民学校5年生だった千島歯舞居住者諸島連盟(千島連盟)副理事長、河田弘登志さん(82)=根室市宝林町=は、コンブ漁から戻ってきた大人たちが、終戦の知らせを聞いて、浜に座り込んでしまっていた光景を覚えています。「日本が負けるとだれも思っていなかったから。この先どうなるのか。とにかく頑張ろう、と親たちが話していました」。

 そんなざわめきが落ち着き始めた9月の初め、突然ソ連兵が、島に姿を現しました。

わずか10日足らずで北方4島を占拠

 ソ連が日ソ中立条約を無視して、参戦したのは第2次世界大戦末期1945年8月9日のことでした。終戦後すぐの同18日からは千島列島の攻撃を開始、同31日までに千島列島南端の得撫(ウルップ)島を占領します。さらにソ連軍の別の部隊は北方4島を侵攻し、同28日には択捉島、9月1日から4日までに国後・色丹両島と歯舞群島をそれぞれ武装解除し、同5日までに北方4島の占領を完了しました。

「学校へ行きたい」 ソ連兵への訴えがきっかけで根室へ行くことに

 新築したばかりの家に、銃を装備した2人のソ連兵が土足で踏み込んだとき、河田さんは恐怖心で、3年生だった弟と、幼い妹たちと一緒に、母親の背中に隠れていることしかできませんでした。それからは島民がコンブ漁に出た記憶もありません。夜間は外出禁止、学校がソ連兵の兵舎代わりになり、学校も行けなくなり、友達にも会えなくなりました。夜闇に乗じて、半数ぐらいの住民は身の回りのものだけ積んだ小船で出て行きました。その中には遭難してしまった家族もかなりいたとみられています。

 河田さんが多楽島を離れたきっかけは、思いがけない出来事からでした。多楽島でナンバー2の地位にあったソ連兵が、島の子供たちとよく遊んでくれました。「学校に行きたい」。河田さんが思い切って訴えると「学校は行かないとだめだ」と返答。子供だった河田さんには、どんな経緯があったかわからないまま、それからすぐに、先に自力脱出していた母方の親戚が、白昼堂々と根室から河田さんを船で迎えにきました。

「向こうで机がないと困るだろう」。
 ソ連兵は兵舎にした学校から、机2つを運んで、船に積みました。そして河田さんと小学3年の弟2人だけが学校に行くため、島を出たのです。それまでも休みになると、根室に船で頻繁に家族と出かけていた河田さんは「また、すぐに親兄弟のところに戻れると気軽に考えていました」と話します。

 それが、島との別れになるとはまったく思いも付かないことでした。

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最終更新:10/7(金) 9:58

THE PAGE

北朝鮮からの脱出
北朝鮮での幼少時代、『ここは地球上最高の国』と信じていたイ・ヒョンソだったが、90年代の大飢饉に接してその考えに疑問を抱き始める。14歳で脱北、その後中国で素性を隠しながらの生活が始まる。 これは、必死で毎日を生き延びてきた彼女の悲惨な日々とその先に見えた希望の物語。そして、北朝鮮から遠く離れても、なお常に危険に脅かされ続ける同朋達への力強いメッセージが込められている。