ここから本文です

空襲被災者の救済訴え続けた杉山千佐子さん101歳で逝去 お別れ会は10月9日名古屋で

アジアプレス・ネットワーク 10/5(水) 17:42配信

◆「戦時災害援護法」、成立見ぬまま

「全国戦災傷害者連絡会」(全傷連)会長として民間の空襲被災者への補償を求める運動の先頭に立ってきた杉山千佐子さんが9月18日、101歳の誕生日に老衰のため名古屋市内の高齢者施設で亡くなった。(新聞うずみ火/矢野宏)

【関連写真を見る】大阪・京橋駅空襲慰霊祭 終戦前日の空襲で死者200人以上…無念募る(矢野宏/新聞うずみ火)


杉山さんは1945年3月25日の名古屋大空襲で左目と鼻の上部を失った。当時29歳。戦後、杉山さんは生きるために職を転々とした。「実入りがいいから」と化粧品のセールスをしたこともある。「蔑んだ眼差しで断られたり、子どもを呼んで『言うことを聞かないと、おばちゃんみたいな顔になるよ』と言われたりもしました」。大学の寮母として落ち着いた暮らしを取り戻したのは50歳の時だった。

戦後、日本は旧軍人・軍属には恩給や年金を支給しているが、民間の空襲被災者には補償していない。杉山さんは、戦時中は民間人も援護の対象になっていたことを知り、72年に全傷連を結成。泣き寝入りしていた空襲被災者の被害を掘り起こしていく。

翌73年には、民間の空襲被災者の救済を盛り込んだ「戦時災害援護法」案が国会に上程された。

当時、戦後補償の責任者である厚生大臣と面会し、「国との雇用関係がないから補償しない」と言われた杉山さんは「国が始めた戦争なのに、国民は耐え忍べと言うのですか。傷つけられた身体を元に戻してください。もし、あなたの娘さんがこんな姿になったときもそうおっしゃいますか」とかみついたこともある。

戦時災害援護法案は89年までに14回上程されたが、いずれも廃案になった。

私が杉山さんと初めてお会いしたのは2007年11月。名古屋市千種区のバス停を降りると、ピンクの帽子に真っ赤なコートを着た小柄な杉山さんが待っていてくれた。

取材を終えると、行きつけの小料理屋に案内していただいた。ビールをすすめてくれ、自身は好物のウナギのかば焼きを注文した。「元気の秘訣はこれ」と打ち明けてくれた。

90歳を超えてもなぜ、声を上げ続けるのか尋ねると、答えは明快だった。
「子や孫の世代が戦争に脅かされないためにも、戦時災害援護法がないと『国民はいつも踏みつぶしていい』という政府の考えを通すことになってしまう。戦争で傷ついた人間が存在したという証しとその痛みをわかってほしい。それに、死んでいった仲間たちの無念、私自身の人生を奪われた無念を思うと、やめるわけにはいかんのだわ」

10年8月、東京、大阪の空襲訴訟原告団が結成した「全国空襲被害者連絡協議会」(全国空襲蓮)の顧問となり、車いす姿で支援を訴えてきた。

今年6月には愛知弁護士会主催のシンポジウムに出席。「国は耳を持っていない。援護法を訴えても知らん顔。いつになったら戦争は終わるのでしょうか」と訴えた。それが公の場での最後の姿となった。

援護法の実現を見ぬまま亡くなった杉山さん。さぞかし無念だったことだろう。 10月9日には、名古屋市内でお別れの会が開かれる。

最終更新:10/5(水) 18:07

アジアプレス・ネットワーク