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<空襲体験を語り継ぐ>防空壕は役に立たなかった 崩れていた防空壕「神話」

アジアプレス・ネットワーク 10/8(土) 5:30配信

「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」仙台大会が去る8月27、28の両日、仙台市青葉区の市戦災復興記念館で開かれた。全国各地で空襲体験を語り継ぐ活動をしている市民団体や研究者ら150人が 参加し、大会テーマである「防空壕と防空政策」について情報を交換し合った。 (新聞うずみ火/矢野宏)

◆中小都市の空襲、体験者語る

初日は、全国連絡会議の工藤洋三事務局長が「米軍資料から見た日本本土空襲と仙台」と題して講演。工藤さんは、焼夷弾を使った空襲の目的について、「単に建物を焼き払うということではなく、市街地に制御不能な大火を発生させることだった」と述べ、「米軍は日本の都市を調べ、それぞれの都市の燃えやすいところを指標とした『焼夷区画』を設定して いた」と語った。

1945年3月に始まった大都市空襲で東京や大阪などが壊滅状態になると、6月中旬から攻撃対象は中小都市へ広がる。仙台への空襲は45年7月10日。堺、岐阜、和歌山とともに、7回目の中小都市空襲として行われた。

123機のB29爆撃機が次々に焼夷弾を投下し、犠牲者は1064人を数える。仙台市街地の27パーセントが焼失されたが、同じ日に空襲した堺44パーセント、和歌山52.5パーセント、岐阜74パーセントに比べて低かったため、米軍は仙台への再空襲を計画していたという。

16歳の時に仙台空襲を体験した伊達忠敏さん(87)は、阿鼻叫喚の中を逃げまどった体験を語った。「焼夷弾が降ってきて身を伏せた時、左足に電気のしびれのようなものを感じるとともに、頭から油の固まりのようなものをかぶった。左足に触れると、鉄片が突き刺さっていた。起き上がって歩こうとしてつまずき倒れた。よく見ると、女性の死体だった。私の2メートルほど先で焼夷弾の直撃を受けたらしく、首がなくなっていた。私がかぶった油のようなものは、彼女の血と焼夷弾の油脂だった」

◆防空壕の安全神話、すでに崩れていた可能性も

最終日の翌28日は、「防空壕と防空政策」について、全国各地の団体や研究者から報告があった。八王子市史編集専門部会の斎藤勉さんは、45年8月1、2日の「第13回中小都市空襲」 で八王子、富山、長岡、水戸の4都市に627機のB29が来襲し、5127トンの焼夷弾を投下したことに触れ、「当時、人口7万7000人の八王子で犠牲者は445人だったのに対し、人口7万4000人の長岡で1476人。人口17万人だった富山では2704人。人口に対する死没者の比率は、八王子が0.57に対して、 長岡が1.98、富山が1.6」と報告し、「東京大空襲のあと、八王子には多くの罹災者が避難してきた。市民は避難者から『防空壕は役に立たない』と聞いたらしく、防空壕に入れば安全という『防空壕神話』はなかったのでは」と語った。

「富山大空襲を語り継ぐ会」の和田雄二郎さんも「犠牲者の半分のうち、6、7割が防空壕で亡くなった」と述べたあと、こう主張した。
「当時の日本政府と軍部は、空襲時であっても『退去禁止』『初期消火』を義務づけ、さらには『防空壕を作れ、防空壕に入れ』などと命じた。市街地全体が火の海になった中では、初期消火もどんな防空壕も何の役にも立たなかった。お上の言うがままに防空壕の安全を信じ、そこに入ったために命を失った市民が多くいたことは明らかだ」。

最終更新:10/8(土) 5:30

アジアプレス・ネットワーク

北朝鮮からの脱出
北朝鮮での幼少時代、『ここは地球上最高の国』と信じていたイ・ヒョンソだったが、90年代の大飢饉に接してその考えに疑問を抱き始める。14歳で脱北、その後中国で素性を隠しながらの生活が始まる。 これは、必死で毎日を生き延びてきた彼女の悲惨な日々とその先に見えた希望の物語。そして、北朝鮮から遠く離れても、なお常に危険に脅かされ続ける同朋達への力強いメッセージが込められている。