ここから本文です

集落一変、脳裏残る惨状 焼け野原に悪臭不発弾も 10・10空襲72年

琉球新報 10/10(月) 10:22配信

 【南風原】その日の朝まで当たり前のようにあった集落が焼け野原と化していた。1944年10月10日午後、10・10空襲で米軍機が南風原町与那覇の集落に爆弾を落としていった。元南風原町議会議長で、当時10歳だった与那覇出身の新垣善清さん(82)は、避難していた防空壕から出た際、集落から上がっていた黒煙を今も鮮明に覚えている。このほど南風原町史に収められた町与那覇が爆撃を受けた写真を見詰め「写真を見たのは初めてだ。こんなにひどかったとは…」と言葉を失った。


 10・10空襲の朝、新垣さんは与那原方面から那覇方面に100機以上の米軍機が飛んでいく様子を見た。「日本軍の演習かと思ったが、すぐに空襲警報が鳴った。日本軍が高射砲で米軍機を狙い撃ちしたが、全く命中していなかった。怖かった」。新垣さんは何が起こるのかとおびえながら防空壕に避難したという。

 母親に手を引かれ、壕の中に入った時刻はおぼろげだ。暗い壕の中には爆撃音や振動はほとんど伝わらず、外の様子は分からない。どれぐらい時間がたったころか、何人かの大人たちが慌てた様子で壕に入ってきて叫んだ。「与那覇が燃えている」

 空襲がやみ、外に出たのは夕暮れに差し掛かりつつあるころだった。家はほとんど焼けてなくなっていた。家畜として飼われていた豚や鶏、馬は焼け死に、ものすごい悪臭が漂っていた。辺りには爆発しなかった焼夷(しょうい)弾が散らばり、大人が拾って道の脇に投げていた。衝撃だった。「死人が出なかったのは不幸中の幸いでしかない」と当時の惨状を述懐した。

 新垣さんは「当時のことを直接見て覚えている人はもうほとんどいないだろう。このような写真が見つかったことは地域にとっても歴史的な資料、財産になるだろう」と話した。

 集落の住民はその後、仮設の住宅を作り、共同で食事を作るなどして生活を続けた。だが、沖縄戦が本格化すると南部などへの避難が始まった。新垣さんは現在の南城市大里の壕に避難し、最終的に米軍に収容された。「戦争は本当に悲惨だ。逃げながらばらばらの死体を数え切れないほど見た。自分自身、生きているのが不思議なほどだ。何が何でも戦争を繰り返すようなことがあってはならない」と語気を強めた。
(外間愛也)

琉球新報社

最終更新:10/10(月) 10:36

琉球新報