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なぜ地図で「浅草寺」を真ん中にしてはいけないのか

ITmedia ビジネスオンライン 10/12(水) 8:06配信

 いきなりだが、下の地図(2枚)を見ていただきたい。上の地図は、東京都内最古の寺「浅草寺」(台東区)が北に位置している。下の地図は、「浅草寺」が真ん中に位置している。

【実際に掲載されている地図】

 さて、ここで問題。上と下の地図、どちらが“正しい”地図だろうか。

 「ん? 浅草寺ってそんなに有名なの? 行ったことがないからなあ」という人もいらっしゃると思うので、ここで簡単に浅草寺についてご説明しよう。浅草寺は東京・浅草の代表的な観光スポットで、年間3000万人ほどが訪れるという。境内まで伸びる仲見世で、おみやげを買っていたり、食事を楽しんでいたり、多くの人が賑(にぎ)わっている。記者も平日の朝7時ごろに訪れたことがあるが、すでにたくさんの人が大きな提灯がぶら下がった雷門前で記念撮影をしていた。

 ものすごく有名な観光スポットなので、記者はてっきり真ん中にどーんと掲載されている下の地図のほうが正しいと思っていた。しかし、である。地図『ハンディマップル』シリーズを編集している昭文社の市川智教さんに聞いたところ、正解は「上の地図」だという。

 その話を聞いたとき、「そ、それは違うでしょ。浅草寺が真ん中にあったほうが見やすいですよ」と問い詰めてしまった(すみません)。その道、10年以上活躍しているプロに対してである(すみません)。なぜ、地図で浅草寺が真ん中にあってはいけないのか。市川さんに聞いたところ、理由は2つあるという。

 その理由を聞いて、記者は合点したと同時に、びっくりしたのである。「紙の地図なんて使わないなあ。スマホで十分」という人が多いかもしれないが、何世代にもわたって脈々と受け継がれている編集力のスゴさに驚いたのである。そのスゴさとは……。聞き手は、ITmedia ビジネスオンラインの土肥義則。

●真ん中に「浅草寺」はダメ

土肥: 地図を編集されている市川さんにお聞きしたいことがあります。下の図を見ていただけますか?

 これは昭文社が発行している地図『ハンディマップル 東京 詳細便利地図』に掲載されていた都心索引図ですが、ものすごく複雑ですよね。ということは、地図を作成するうえで「どの範囲を取り込めばいいのか」がポイントになるのでしょうか?

市川: おっしゃる通り、どの範囲を取り込むかによって、見やすい地図ができたり、見にくい地図ができたりするんですよ。例えば、下の地図(2枚)を見ていただけますか。どちらかが実際に掲載されている浅草の地図ですが、どちらだと思いますか?

土肥: 浅草といえば「浅草寺」。とても有名な観光スポットなのに、上の地図は北のほうにありますよね。上の隅のほうに掲載されていて、ちょっと分かりにくい。一方、下の地図は真ん中にどーんと掲載されているので、分かりやすい。というわけで、見やすいのは下のほうでは?

市川: 残念! 見やすいのは上の地図なんですよね。

土肥: そ、それは違うでしょ。浅草寺が真ん中にあったほうが見やすいですよ。

市川: 浅草寺を中心にして考える地図であれば、下のほうがいいかもしれません。ただ、地図を使う人の多くは「浅草寺までどうやったら行けるかなあ」といった視点に立って考えるのではないでしょうか。

 もう一度、2枚の地図をじっくり見ていただけますか。上の地図は、各路線の駅がしっかり掲載されていますよね。鉄道でやって来る人のことを考えれば、浅草寺と最寄駅は掲載したほうがいいんですよね。しかし、下の地図には、浅草寺が真ん中に位置しているので、都営浅草線の浅草駅と東京メトロ銀座線の田原町駅が切れてしまっている。

土肥: 確かに。下の地図を手にしながら、浅草寺に行こうと思っても、これじゃあ分かりにくいですよね。鉄道で浅草寺に行く人のことを考えたら、下の地図がよいわけですが、北のほうから来る人にとっては上の地図は分かりにくいのではないでしょうか。こっちを取れば、こっちが分かりにくい、といったことになっている。

市川: いえ、北の部分は切れていていいんですよね。浅草寺の北には徒歩で気軽に行ける範囲に駅がないので、浅草寺に北から行く人ってほとんどいないんです。

土肥: あっ、そういえば。人の流れを理解しているほうが、よりよい地図ができるわけですね。

市川: です、です。

●浜離宮庭園の入口に注目

市川: 次に浜松町駅近辺の地図(2枚)を見ていただけますか。どちらかが実際に掲載されている地図ですが、どちらだと思いますか?

土肥: これはパッと見て、分かりますよ。左のほうに徳川将軍家とゆかりの深い「増上寺」が掲載されていて、右のほうに「浜離宮庭園」があるので、感覚的に下の地図のほうが分かりやすい。というわけで、下の地図……いやいや、浅草の地図では駅が掲載しているかどうかがポイントでしたよね。ええと、下の地図には、浜松町駅、大門駅、芝公園駅、御成門駅、赤羽橋駅、神谷町駅が掲載されているので問題なしと。正解は「下の地図」ですね。

市川: 残念! 実際に掲載されているのは「上の地図」なんですね。

土肥: ちょ、ちょっと待ってください。下の地図になくて、上の地図にある駅といえば、JR東日本の田町駅と都営三田線の三田駅くらいです。ま、まさか、増上寺に行くのは、田町駅や三田駅を利用する人が多いとか?

市川: いえ、そういうわけではありません。実際に掲載されている上の地図を見ていただけますか。浜離宮庭園が切れている。一方、下の地図は浜離宮庭園が掲載されている。

土肥: 掲載されているほうがいいじゃないですか。

市川: 確かに掲載はされているのですが、浜離宮庭園に行きたいという人には使いにくいんですよね。

土肥: どういう意味でしょうか?

市川: 浜離宮庭園の入口は北のほうにあるんです。下の地図のように浜離宮庭園を掲載していても、実際に現地に行こうと思っている人にとっては分かりにくい。むしろ、入口付近の地図を詳しく掲載したほうがいいんですよね。というわけで、最寄りの汐留駅と浜離宮庭園の入口が詳しく掲載されている地図を用意しました。

●こっちを取れば、こっちがおかしくなる

土肥: いやはや、それしても興味深いですね。浅草と浜松町のケースをご紹介していただきましたが、これって入社試験に使えるのではないでしょうか? 編集職希望者に、2枚の地図を見せて「あなたなら、どちらの地図を選びますか? 実際に掲載されている地図を選びなさい」と。多くの人が“掲載されていない地図”を選びそうですね。

市川: かもしれません。私もこの仕事を始めるまで、地図を編集する際にどの範囲を取り込むのかが重要なんて、よく知らなかったので……。

土肥: もし、この問題が入社試験に出ていたら、市川さんはひょっとして……

市川: どうでしょう(笑)。経験のない人にその問題を出すのは難しすぎる気がしますよ。

土肥: 話を変えましょう。地図で「浅草寺」を真ん中にしてはいけない、「浜離宮庭園」は入口付近をきちんと掲載しなければいけない、ということですが、ここで新たな問題が生じませんか。例えば、浜離宮庭園をうまく掲載できたけれど、近くにある築地市場が分かりにくくなったとか、銀座をすべて表示できなくなったとか、といったケースはないのでしょうか。

市川: 実は、しょっちゅうあるんですよ。そうしたときには、調整しなければいけません。

土肥: どのように調整しているのですか?

市川: 地図誌面の四端を重複させています。書籍タイプの連続したエリアを掲載している地図は基本的に見開きの四端が重複していまして、この重複の幅を調整しています。編集者によって、この作業がうまい、うまくないといった差が出るんですよね。

 「重なっている部分があればダメじゃないか」と思われるかもしれましれませんが、目印になるような場所、道路、交差点などは重ねたほうが分かりやすいときがあるんです。

土肥: つまり、地図を少しズラすわけですよね。そうすると、また新たな問題が生じませんか。縮尺は決まっているので、ここを少しズラすと、次のページが見にくくなる。じゃあ、またズラせばいいじゃないかということでズラす。そうすると、また次のページが見にくくなる。そうした作業を繰り返すことで、全体が見にくくなることはないのでしょうか?

市川: 分かりやすくするためにどんどんズラしていけばいいじゃないか、という発想で作業をしていると、どんどんページが増えていきます。そうなると、コンパクトさがなくなったり、使いにくい地図が完成してしまいます。そうなってはいけないので、地図を作成する前に、まずどの範囲を取り込むのか……といった取捨選択をしていかなければいけません。その作業を終えるのに、2~3日かかるんですよね。「そ、そんなにかかるの?」と思われたかもしれませんが、ここで適当なことをしていると、あとあと大変なことになってしまうので、最初にどこを基準に掲載していくかを決めなければいけません。こうした作業を「図取り」と呼んでいて、この上手下手が編集者の腕の見せどころになります。

土肥: こっちを取れば、こっちがおかしくなる、という事態に陥るわけですね。

市川: はい。

●想像と実際の街が合致するといった感覚

土肥: 地図って「正確」さが求められるので、「個性は必要ない」と思っていたのですが、編集者によって“個性”が出るわけですね。腕のいい編集者と、あまりよくない編集者とではずいぶん違う地図ができるのではないでしょうか。

市川: ですね。上手な編集者が地図をつくると、現地に行ったときに「あ、同じだ」といった感覚に陥るんですよ。

土肥: え、でも地図ですよね。地図だから「同じ」でなければいけないのでは?

市川: 地図を見たとき「ここはこういう街なのね」と想像して、実際に現地に足を運んだときに「想像通り」と感じる。想像と実際の街が合致するといった感覚ですね。

 少し細かい話になりますが、市役所の建物って分かりにくいところがありますよね。看板が大きくないこともあって「あれ、これって市役所なのかなあ」といったケースがあります。そうした建物を分かりやすく伝えるにはどうすればいいのか。

 市役所の近くにある目印になるような建物を目立たせるんですよね。例えば、スーパーとかコンビニを掲載することで、初めて来た人でも「あ、○○というスーパーが見えてきたので、その隣に市役所があるはず」といった感じで、使っていただける。市役所の建物を見て「あれが市役所なのか。それとも隣のビルなのか」と迷うようでは、いい地図とは言えないんですよね。

土肥: 情報の取捨選択になるわけですね。

市川: はい。何を載せるか、何を載せないか。何を目立たせるのか、何を目立たせないか。

土肥: なるほど。ただ、昭文社って昔から地図をつくっていますよね。ということは先輩たちから「これをやっちゃダメ。これをやりなさい」といった知見はたまっているはず。

市川: 文字はこのように目立たさなければいけない、文字はこのように置かなければいけない、といったマニュアルはあります。ただ、地図はどんどん変わっていきます。時間をかけてつくって、完成して「はい、終わり」という世界ではないんですよね。新しい建物がどんどん建っていきますし、新しい道路もどんどんできていく。区画整理によって街の名前も変わっていく。毎年、更新していかなければいけないので、そのたびに編集者のチカラが試されるんですよね。

●高速道路が完成したらうれしい

土肥: 地図の編集者って、どんな気持ちで街を歩いているのでしょうか? ワタクシなんかは新しい居酒屋ができるのを見ると、「おいしそうだな。今度、飲みに行くか」といった感じのレベルなのですが。

市川: 私の場合、街の変化がものすごく気になります。工事中の建物を目にすると、「ここに何ができるんだろう」とどうしても気になってしまう。例えば、なにもないところにコンビニができたりすると、周囲が開発される可能性が高い。道路ができるかもしれないし、家が建つかもしれない。そんなことをどうしても考えてしまいますね。

 あと、長期に計画されている建物とか道路も気になります。例えば、10年先に完成する道路などは、事前に掲載しておきます。予定通り完成しなくて消去することもありますし、完成が遅れて予定のままにしていることもあります。月日が経って、ようやく完成すると、こちらまでうれしくなるんですよね。「やったー!」といった感じで。特に、高速道路は10年以上前から計画されていることが多いので、完成したときには本当に感慨深い。

土肥: 完成前は「-----」などで表示していたのに、道路が完成すると色を塗れるわけですね。「やっと、緑色を塗れる」といった具合に。

市川: ですね。こちらは関係者でもなんでもないんですけどね(笑)。

(終わり)

最終更新:10/14(金) 8:07

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