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苑田聡彦によって始まっていたカープの育成

東スポWeb 10/13(木) 10:00配信

【越智正典「ネット裏」】巨人の外野手萩原康弘がカープの左腕小俣進(のちに長嶋茂雄付)とのトレードで広島に赴いたのは1975年秋のことである。巨人の広島遠征の宿は世羅別館で、彼は連戦で疲れたときは宿に頼んで布団部屋をあけて貰い、ひとりでぐっすりねむっていたがまさか広島に…とは思ってもいなかった。

 中央大の3番であった彼は、巨人V5の69年秋のドラフトで3位で指名された。この年、監督川上哲治はスカウトに「ドラフト制度下では思うように新人を獲れない。技量が少々劣ってもいいから思い切りのいい選手を獲れ!」と指示した。沢田幸夫が萩原を挙げた。新人選択会議が終わった晩、沢田が横浜子安の家に指名挨拶の電話をかけた。萩原が答えた。「ウソでしょう」

 彼は少年のときから純で、神奈川中学から日体大荏原に入学すると野球部員は300人。が、大変だ、出られそうにない、とは思わなかった。「わあー、凄い。さあー、毎日沢山球ひろいが出来るゾオー」と喜んだ。

 巨人入団4年目の73年が来る。流石の巨人も旭日昇天の勢いはなくなっていた。長嶋が打率3割を割る。10月10日、後楽園球場で田淵幸一に満塁本塁打を打ち込まれ、阪神に首位を明け渡す。翌11日、阪神25回戦。球審富沢宏哉の右手が挙がると、あっという間に堀内恒夫が打たれる。2回、長嶋がはね飛んだ打球で右薬指を骨折退場。2回を終わると0対7。はや敗色濃かったが、巨人はここから追い上げる。5対7の6回二死一、二塁、川上は代打に萩原を送った。萩原は上田二朗(東海大)をとらえて逆転3ラン。川上の慧眼、先見の殊勲打でもあった。試合はもみ合いになって10対10。巨人は引き分けに持ち込み、V9へののぞみをつなぎ、10月22日、甲子園球場での阪神最終戦で勝ち勝利の大記録を樹立した。阪神の捕手“ダンプ”辻恭彦が萩原をつかまえる。「とんでもないヤツだ。わしら日本シリーズにいけなくなった!」…。

 カープの球団事務所に着くと、代表重松良典が「遠路はるばるご苦労さんですな。気持ちだけだけど、昇給しましょう」。引越し代は規定で両球団で折半でこの場合は15万円ずつだったが「足りなかったでしょう。うちの分を少し足しましょう」

 萩原は「うれしくなっちゃうと、練習しちゃうんです」と回想してから赤ヘル軍団を活写した。

「キャンプが始まり、夕方、もう少しで終わるとホッとして気を抜くと、まるで場内放送のように、みんなの声が飛んで来ました。“オーイ、どこから来たんだッ!”。キャッチボールの相手は初日からずぅーと、生え抜きの苑田(聡彦、現スカウト統括部長)さん。こっちはペイペイ。必死でした…」

 カープの育成は、黒田博樹、菊池涼介、丸佳浩、キクマル…らを獲ることになる苑田によって、もう始まっていた。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)

最終更新:10/13(木) 10:59

東スポWeb