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タミヤのラジコンはこうしてブームになった

ITmedia ビジネスオンライン 10/14(金) 6:48配信

 なぜタミヤの商品はクオリティが高いのか。前回の記事では、商品開発の現場に長らくかかわった体験を基に説いてみた。そこから生まれたヒット商品の1ジャンルが、ラジコン(RCカー)だった。

【80年代半ばにオフロードバギー人気の口火を切った「マイティフロッグ(復刻版)」】

 その当時のタミヤのRCカーが具体的にどれだけ出荷されたかについては残念ながらここでは公開できないが、1984年と1985年には、通常の賞与に特別賞与を加えて計4回のボーナスが支給されるなど、市場の反響やRCカー景気は、全社員へのインセンティブのあり方でも物語っていた。

 今回は、そんな1980年代半ば以降のRCカーブームの背景について紹介する。そこでまずは、かつての子どもたちの興味・関心を知る上で、少しだけ筆者自身のことをお話しすることをお許しいただきたい。

 筆者の模型(プラモデル)との接点は、通学路にあった文房具店と、叔母が営む酒店だった。文具よりプラモデルとライトプレーンで場所を取っていたその文房具店では、小学生になると消しゴムや画用紙を買う大義名分で、手が届く棚のプラモデルの箱を次々と開けて、気が済むまで中のパーツを眺めて品定めしていた。

 叔母の酒店は、量り売りするような代々継がれる古風な店だったのに、なぜか手ごろなプラモデルを扱っていた。コンビニなどなかった当時にすれば少々風変わりな店が身近にあったおかげで、プラモデルに事欠くことはなかった。

 このころから、メッキパーツにバリ(不要な出っ張り)があるメーカーは敬遠した。バリを取るときにせっかくメッキされた部分まで削ることになるからだ。これには仲が悪かった同級生も同調した。こうやって小学生でも成型品の良し悪しを理解するし、そのとき抱いた印象は根深く残る。

 もちろん、当時の子どもたちの関心事はプラモデルだけではない。野球盤も、光線銃SPも、タイガーマスクのフィギュアも、輸入されたばかりのモノポリーや他のボードゲーム類も、「誰かが買った」「お店にあった」と聞くと皆で駆けつけた。

 ところが、中学生になると“皆”が“疎”になって、そんな状況が次第に消えていった。こうした記憶が強いこともあり、筆者にとって小学生にチヤホヤされる商品は羨望だった。

●ターゲットはヤングアダルト層だった

 タミヤの企画部デザイン室のメディア担当として、出版社回りも慣れてきたころのこと。いくつかの小学生向け媒体が集計したお年玉の使い方に関する読者アンケート結果や、懸賞ページの応募結果を見せてもらった。上位に「プラモデル」がなかった。

 折しも、タカラ(現タカラトミー)さんの「チョロQ」が大ブレイクしていて、生産台数はとっくに1000万台を突破していた。模型メーカー数社が、よせばいいのに、これに肖った商品まで出したりして、素直に直視できなかった。小学生の“プラモデル欲しさ”は、こうやって失われていくのかという口惜しさもあった。

 けれども、なぜか危機感はなく、いつかタミヤを子どもたちのホットトピックにすればいいと気焔を吐いていた。このころから、媒体別のプロモーション施策も仕事になっていった。

 タミヤの商品群は「楽しい工作シリーズ」などの一部を除けば、小学生よりヤングアダルト(13~19歳)以上の層にマッチしていると言われていて、しかも、既に当時からこのマーケットにはマスマーケティングが通用しないとも言われていた。それでも、玩具メーカー各社はもちまえのIP(intellectual property)を中・高校生に向けてブンブンと振り回して攻めていた領域だったので、筆者も少なくともそれに圧倒されず同じテーブル上に並んで見えるぐらいの媒体別アタックは続けた。

 中学生や高校生が読む雑誌と言えば、90年代まで学習雑誌(○○コース/○○時代)という絶好の媒体があって、たびたびパブリシティにも協力いただいた。だが、かつて筆者もお世話になった媒体なので、読者がホビーやエンタメ情報を一番に求めていないことぐらい肌で分かっていたし、そこを何とかしようとする企画には編集部も冷ややかだった。

 ほかにこれらの世代をつかんで離さないようなユニティーな媒体はなかったので、少しでも中・高校生層をとらえている媒体を次々と当たるしかなかった。それは主に、パソコン、ゲーム、アニメ、ファッション、音楽といった専門誌、そしてコミック誌だった。

 専門誌だから専門情報外のニュースは大して重要ではない。継続的な企画は期待できないから、せめて絵的な露出だけでもと足繁く編集部に通って、とにかく数を打とうと割り切った。ところが、専門誌では専門情報外のニュースが一くくりにされやすいせいか、模型の情報も一般のニュースと遜色ない対応を受けることが多かった。思いがけずこれはラッキーだった。

 ある大手アニメ専門誌ではRCカーの企画ページを連載で設けるなり、「(原稿を)書いて!」と言われ、そのまま筆者がタミヤを辞するまで続いた。また、ある大手ゲーム専門誌では、たびたびタミヤ情報が漫画の具材になり、作家がRCカーにハマると3週連続でそれをネタにした漫画が綴られる展開もあった。

 もちろん、これらの動きがヤングアダルト層にどこまで刺さったかは不明だ。ただ、次第にRCカーとは縁遠かった様々な専門誌の編集担当者がはるばる静岡入りし、本社やタミヤサーキットでの撮影を敢行することが増えていった。結果、特にカラーページでのRCカーの露出は格段に増えた。媒体資料をベースに広告料金に換算すると、月次で計4000万円前後のボリュームになっていた。今より雑誌がすこぶる元気で、それぞれの専門分野ごとに多くが競合してマーケットを盛り上げた時代だったことも大きな要因ではあった。

 少し時期が前後するが、ヤングアダルトとは別に小学生へのアプローチも進めつつあった。ちょうど当時の小学館の学習雑誌(小学一年生~小学六年生)が、故小松左京先生を審査員に迎えて「プラモ写真コンテスト」を主催したこともあって、以降、各学年誌の編集部と編集担当者に往訪することが多くなっていた。

 あるとき、ほかの雑誌の取材用に持参したRCカーの完成品を引っ提げたまま「小学六年生」の副編集長を訪ねた。物々しいバッグの中身が何であるかを言わないわけにもいかず、小学生には難しいことを前置きして見せると、「ちょっと待て、まだ時間あるか?」と聞かれ、外の商店街(すずらん通り)にある某編集部までの地図を渡された。「ここにすぐ行って、今のこと話して。連絡しておくから」と言われた。こことは『コロコロコミック』の編集部だった。

●コロコロコミックとの出会い

 既にいくつかの少年誌やコミック誌の編集部は訪ねていたが、コロコロコミック編集部への訪問は初めてだった。このとき持参していたRCカーが、既に発売されていた「ワイルドウイリス」だ。商品の説明などを一通りすると、後日いきなりRCカーの連載マンガについて相談が入った。その約4カ月後の1983年6月には「ラジコンボーイ」の連載がスタートした。

 連載が始まって少し経ったころ、コロコロコミック編集部から驚くようなリクエストが入った。ワイルドウイリスを飛ばしたり、90度の壁を登ったりさせたいけどできるか?という内容だった。すぐに設計室や工作室に事情を説明したが、良い顔をされなかった。

 2日ほど悩んでいたところに再び連絡があり、あるモデラーが作ったので見てくれというので半信半疑で訪れると、サンプルで渡した組み立てキットをベースにした完成品には手作りのウインチが稼働するようになっていて、壁の上にフックを掛けると、それを巻き上げながら車体が壁を登った。そして、本当に飛ぶわけではないが、ルーフにマウントした水牛の角みたいなウイングがボタン1つで広がって、その中央にワイヤーを通すとそれを伝って滑空できる仕組みが施されていた。

 ラジコンボーイの主人公が操るワイルドウイリスが、「バッファロー号」というスペシャルマシンで登場するストーリーに合わせて、巻頭グラフで同様のリアルな完成品を載せたいということだった。そして、「これ(こんな使い方をして)、問題ないですかね?」と尋ねられた。

 この、模型専門誌もRCカー専門誌もやったことがない前代未聞の改造作品のことを報告すると、タミヤの関係者一同も唸った。我々よりRCカーへの熱い取り組みが形になっていて、何よりも読者へのメッセージの一途さで負けた感覚を味わった。どういう理由があったにせよ、筆者が何も手を出せずに終わってしまったことを猛省した。おかげで、設計スタッフや工作室スタッフがその後の出版社とのコラボレーション企画に発奮するクスリにもなった。筆者がRCカーやミニ四駆の改造例に自ら手を着けるようになっていったのもこのことがきっかけだった。

●少年向けホビーのレベルを超えた価格

 コロコロコミックの巻頭で、新しいRCカーのイメージショットや走行シーンなどが露出されるようになると、メイン読者の小学生(中・高学年)の反響がよく伝わってきた。読者アンケートの結果でも、RCカーの人気は長期に渡ってファミコンとともにトップクラスにあった。タミヤが全国の百貨店で開催していた展示イベント「タミヤモデラーズギャラリー」でも、RCカーに関する質問や売れ方が変わってきた。筆者個人にとっても、工作に目覚めてほしかった対象への訴求効果が格段に上がって嬉しかったが、大きな問題も起きた。

 その多くは、プロポ(送信機・受信機のセット)が別売りだと知らずにRCカーだけを買ったことや、プロポと専用バッテリー&充電器セットを加えたらおよそ3万5000円にもなる高額なものを少年向けホビーとして押し出すことへの苦情だった。アフターサービス部門のボスが、そんなユーザーや親の反応をつぶさに知らせては警鐘を鳴らしてくれた。プロポとバッテリー&充電器が別売りであることを強調する対応は進んだが、もう一方の問題解決はとても悩ましかった。

 筆者は当初、コロコロコミックで小学生にタミヤを良く知ってもらい関心を持ち続けてもらえるような戦略が叶えば、彼らが中学生以上になったときにはRCカーフリークも増え、マーケットもスケールするだろうと考えていた。だから、売らんかなというトーンは一切消して、RCカーは「カッコいい」というイメージ最優先の見せ方に徹底していた。

 それでも、ワイルドウイリスが欲しいという小学生や、その保護者からの問い合わせが思いのほか多くなっていった。正直言って、当時コロコロコミックの誌面を賑わせたワイルドウイリスやマイティフロッグは、小学生の高学年でも難易度が高めな工作だったはずだ。3万5000円も出して、「組立てられない=走らせられない」で良いはずもない。

 タミヤでは、“First in quality around the world”という 品質絶対優先主義を掲げていて、それは揺るぎないものだった。従って、それまでのRCカー製品もそのクオリティに見合う価格設定がなされるものだったから、価格戦略など到底できない相談だった。

 そんな中、5000円、1万円という思い切った低価格帯のRCカーが出せないものか、筆者は危機意識にまかせて、デザイン室顧問の田宮督夫先生と当時の企画部長に対してリポートや素案を繰り返し提出し続けるしかなかった。

 1万円を切る低価格帯のオフロードRCカーは、過去に、その実績やベースがなくはなかった。1980年にリリースされた「ホリデーバギー」「デューンバギー」がそれだ。部品点数が少なく、FRPプレートの弾性を利用したリアサスペンションや、塗装をする必要がなく衝撃吸収性に優れる美麗なメタリックブルーの塩化ビニール製のボディなど(ホリデーバギー)、入門者用マシンとして画期的な意欲作だった。

 ただし、当時の商品群を象徴するフラッグシップモデルがどれで、各モデルの持ち味は何で、諸元はどうか、といった情報が拡散されない中で廉価や入門者用をうたっても、打ち出しが弱いことは否めなかった。

 そうした中で、ワイルドウイリスやマイティフロッグを象徴化でき、それに手を伸ばそうとしている対象もはっきり見えてきたのである。少なくとも、ホリデーバギー、デューンバギーのようにならないことは説明できたし、ボリュームゾーンがそこにあることは、コロコロコミック、学習雑誌、そのほかの編集担当者から示された資料からも見えていた。

●タミヤ初の価格戦略とキャラクタライズ

 今振り返れば、ここでの問題解決の迅速さはすごかった。1983年12月にリリースしたマイティフロッグを1万4800円で売出し中だったのに、翌年5月に開催のホビーショーまでに新商品のグラスホッパーを7400円で販売することになった。当時のユーザー志向として540モーターへのグレードアップ版が望まれることは自明だったので、併行して「ホーネット」(9800円)を開発し、同年秋にラインアップすることも決まった。どれくらいスピーディーなのかというと、他社が1年間隔でやることを、その半分以下の5カ月間隔でやり遂げていくようなノリだった。

 ニュースソースが確保できたことで、発売日までのティーザー企画を複数回ずつ予定するなどして、向こう1年間のパブリシティのメニューも大枠で組めた。後日、このスピードが戦略の決め手になることがズシリと身に沁みる。

●ファミコンの存在

 商品の詳細については割愛するが、RCカーの登竜門マシンとしての新作2台は、シャーシや足回りの部品点数を極端に減らし、パワーユニット、サスペンション関連パーツ、ボディ(スチロール樹脂かポリカーボネート樹脂か)以外を全て共通化することで、金型の製造コストを抑え込んだ。当時、プロポと専用バッテリー&充電器セットを含め2万円台でRCカーデビューできるようになったことはとても画期的で、その後のムーブメントへの大きな要素になった。

 グラスホッパーの7400円という価格は、同年に「ロードランナー」や「ゼビウス」の話題で人気が沸騰していたTVゲーム機「ファミリーコンピュータ」の本体価格の半額でもあった。それまでに比べ、手が届く(買える)印象を強く与えることができた。そして、このころのファミコンユーザーが所有するゲームソフトは平均3~4本になりつつあって、彼らは既に3~4万円をファミコンに費やしている状況だった。RCカーだけが特段高額なホビーではないことを大きな声で言えるようになったのだ。

 ファミコンが全盛期に入る少し前までにRCカーのイメージ展開ができたことで、少年誌においてカーホビーというジャンルが既成事実化して何気ない底流ができ、後の「レーサーミニ四駆」の展開を容易にすることにつながっていく。

 このRCカーとファミコンのコロコロコミック誌上での顔出しのタイミングは、今でも奇蹟だったと思う。もしグラスホッパーとホーネットの発売が半年遅れていたら、RCカーはファミコン勢に完全にスポイルされていただろう。

 グラスホッパーとホーネットの簡素な車体構成は、専門誌関係者や玄人集団から厳しく評価されたが、商品としての主眼は明快で分かりやすかったし、軽妙で刺すような走りは取材時のプレス関係者のウケも良かった。

 当時のコロコロコミックの読者向けイベント「コロコロマンガまつり」などでは、ホーネットの速さが際立つようなデモ走行を見せた後、体験操縦会でノーマルのグラスホッパーを操作してもらい、ユーザーに難しいものではないこと印象付けた。その結果、体験操縦会は所定時間内に終わらないほどの参加者の列ができた。

 こうなると、嬉々とした子どもを見ていた親からは「どこで売っている?」と尋ねられ、会場の百貨店の店員からは「なぜ物販をやらない?」と問われ、急遽、その百貨店の玩具売場に問屋から納品してもらうようなことも起きた。

 この2台が互いに惹き合うようにして小・中学生へ広がっていくのが肌でも分かった。近い選択肢を提示することの効果であり、どちらか一方しかなければマイティフロッグのような上位車種との直接比較になり、購入動機を狭めたはずだ。

 グラスホッパーとホーネットの人気は、漫画ラジコンボーイのストーリーにも練り込まれていった。後に主人公が操るオリジナルマシン「スーパードラゴン」が登場するきっかけにもなったのだ。

 タミヤは、グラスホッパーとホーネットのシャーシーに合わせたスペアボディセットとして、スーパードラゴンを製品化することになる。当初は一般の小売店では扱わず、コロコロコミック独占通販だった。しかし思った以上の反響を受け、やがて一般の市場にも流通する。タミヤがIPキャラクターものを商品化する動きは、1968年に制作されたジェリー・アンダーソンの特撮人形劇「JOE 90」シリーズ(※「JOE 90」は、「サンダーバード」「キャプテンスカーレット」を手掛けたイギリスの映像作品プロデューサー、ジェリー・アンダーソンが、1968年に手掛けた特撮人形劇)の「マックスカー」以来のことで、日本のコミック雑誌に登場するキャラクターの模型化は初めてのことだった。

 こうしてその後、ラジコンボーイに登場する「ファイヤードラゴン」「サンダードラゴン」「セイントドラゴン」を次々と製品化していく。このことが「レーサーミニ四駆」の誕生につながるのは、そう遠い話ではなかった。(つづく)

(前田靖幸)

最終更新:10/14(金) 6:48

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