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山下智茂氏、作新学院・小針崇宏監督対談【1】23歳で名門校の監督就任

デイリースポーツ 10/16(日) 11:00配信

 デイリースポーツ評論家の山下智茂氏(71)=星稜総監督=が次世代の高校野球を考える企画。第9弾は今年54年ぶりに夏の甲子園を制した作新学院の小針崇宏監督(33)を訪ねた。「怪物江川」らを輩出した名門の復活を成し遂げた若き指揮官の原点は、尾藤公氏(箕島元監督)、山下氏が講師を務めた若手指導者育成の「甲子園塾」だった。【1】~【5】でお届けする。

【写真】作新学院・小針崇宏監督 心に響いた「野球を愛しているか」

  ◇  ◇

 -新チームの練習で、引退した3年生が率先して練習を準備している。

 山下智茂氏(以下、山下)「(エース)今井君や(4番)入江君もいるね」

 小針崇宏監督(以下、小針)「3年生には、グラウンドの中に入ったら動けよと言っています」

 山下「大きな学校だね」

 小針「昭和の最後の方に建て直したのでグラウンドは狭くなりましたが、当時は高校だけで9800人です。このキャンパスは幼稚園、中学、高校があり、1万人を超えているマンモス校と取り上げられました。僕らの時は7500人。15年前で、ちょうど今は半分ですね」

 山下「23歳で監督になった時、名門校でこれだけ大規模な学校だとプレッシャーがかかったでしょう?」

 小針「コーチも半年くらいで、何もわからない状態でした。(若くして任命されたのは)何かを変えてほしいという学校側の意向かなとは思いました。OBの期待も感じていました。何かを変えなくちゃいけないという使命感はあったけど、何をどう変えたらいいのかわからなくて。何から手をつけたらいいのかもわからず」

 山下「名門ゆえだね。笑わないでほしいんだけど、僕が現役(監督)の時には黄色いユニホームの胸に『江川』と書いて(マウンドより前に出て)本塁から13メートルくらいのところで『オレが江川だ』と(打撃投手を)やっていたんだよ。それくらい江川を打ちたかった。今年の決勝戦の解説で(前横浜監督の)渡辺(元智)さんが『山下はおかしい。江川って書いてやっていた』としゃべって、みんなに知れてしまったんだけど(笑)。沖縄返還国体(1973年=沖縄特別国体)は江川と一緒でね。練習が作新学院の後だったから、江川を見ようと早く行ったら、走ってばかり。『投げないの』と聞いたら、『僕はプロへ行くので投げません。肩は消耗品です』だって(笑)。甲子園では、右翼ポールのところに捕手を座らせて本塁からキャッチボールしていた。ボールがミットへすーっと吸い込まれるように入っていくんだね。あれを皆が見て『怪物』という名前がついたらしい」

 -小針監督は筑波大卒業後、すぐに監督になったが。

 小針「自分の高校時代の監督(大塚孝氏)が当時の監督で、母校に帰って来いと。いずれはという気持ちはあったんですが、いろんなところを見て、とも思っていました。でも、恩師から言葉をいただいたので」

 山下「2000年春のベスト8。あの時に、甲子園っていいな、監督になりたいなと思ったの?」

 小針「あの時はまだ。大学で自分の実力がわかって、現役はおそらく大学で最後かと。筑波大は自主性、選手主体のカラーで自分たちで野球部を動かす。指導者として勉強できる大学だと思ってやっていました。でも、現場に入ってからの方が勉強ばかりです」

 -卒業後に母校でコーチに。半年で監督に就任した。

 小針「迷いや戸惑いばかり。選手がいるので目の前の毎日毎日をどうするかで精いっぱいだった」

 -当時は夏の甲子園から30年近く離れていた。

 小針「学校からも夏に復活できるように、夏に勝たせてほしい、そういうチームづくりを何とかしてほしいと。でも、経験がないのでどういうチームづくりをしたらいいのかと」

 山下「僕は(星稜が)5年目の学校だったから。部員8人で伝統もないから楽だったよね。とにかく鍛えて鍛えて。それだけだった」

 -何から手をつけた。

 小針「まず野球に対しての意識改革です。練習でそれを心がけて浸透させる。勝ち負けより、まず目標をどこに設定するのかが一番大事かと。意識改革をしながら、自分たちも選手たちも本気で甲子園というものを現実のものにする。普段からそう考える」

 山下「2009年に31年ぶりに夏の甲子園に行って、長野日大とやったよね。中原英孝監督(現ウェルネス筑北)は、僕らは松商学園時代によく試合をしたから知っている。『はったりの中原』と言われて、ガンガンくるからね。ゲームは競ったけど、後手後手となったよね」

 小針「それで負けました」

 山下「その秋に甲子園塾に来た。すごく印象に残ってる」(2に続く)

最終更新:10/16(日) 12:36

デイリースポーツ