ここから本文です

【月刊『WiLL』(1月号)より】韓国歴代大統領の末路――光明なき歴史の闇

2016/12/2(金) 20:35配信

WiLL

半世紀越しの報復

 今から20年前──。1996年10月23日、韓国北西部・仁川市内のマンションで、一人の老人が撲殺された。
「民族の指導者である金九先生を、自分の利益のために暗殺した安斗熙を、歴史の教訓とすべく殺害した」
 事件発生から7時間後に逮捕された犯人、朴●(王へんに奇)緒が口にした動機である。金九は日本統治時代の独立運動家で、第二次世界大戦後は保守派指導者の一人として、韓国政府樹立にも関わった。
 しかし、朝鮮戦争の直前、南北分断を回避しようと活動していた最中に、韓国陸軍の少尉によって射殺されてしまう。この事件から約半世紀後に撲殺された79歳の老人こそ、射殺犯の安斗熙である。
 現在の韓国歴史学界では、この暗殺の首謀者は、韓国初代大統領の李承晩であると囁かれている。
 李承晩は、最初に渡米した1904年から1910年までアメリカで学び、ハーバード大、プリンストン大で修士号と博士号を取得しているが、李が韓国初代大統領として行った政治は「民主主義」とはほど遠いものだった。
 金九や呂運亨といった保守系指導者の暗殺に始まり、「国民防衛軍事件」、「済州島四・三事件」、「国民保導連盟事件」など、後世の歴史家から「虐殺」と呼ばれる事件を繰り返し、80歳をすぎても権力に執着して不正選挙に明け暮れた。
 さらに、1958年には野党党首の●奉岩(チヨボンアム)をスパイ容疑で処刑し、腹心の李起鵬──李承晩は、起鵬の息子を養子にしていた──と共に、独裁政治を行ったのだった。
 それでも、85歳を迎える1960年には、ついに国民の不満を抑え切れなくなった。李承晩は、11年と8カ月にわたって居座り続けた大統領の座を手放すと、妻と2人でハワイへ逃げ、二度と韓国には戻らなかった。
 側近中の側近だった李起鵬、李康石(李承晩が養子にした起鵬の息子)の一家は、李承晩の失脚時に無理心中事件を起こし、4人全員が死亡した。だが、これが韓国政界における「報復の歴史」の始まりではないのだ。
「李承晩の思考には、大韓帝国【李氏朝鮮】時代の専制政治スタイルが化石となって残っていた」(*1)
 こう述べたのは、韓国人ジャーナリストの池東旭である。
 そもそも李承晩は、王族の遠い血を引く支配階級の出身。朝鮮の鎖国が続いていれば、朝鮮王に仕える「王宮」の官吏となるはずだった。
 王宮とは、地縁を中心に結束した文臣らの党派「朋党」が、専制君主の恩寵を奪い合って、血みどろの「党争」を繰り広げた世界のことだ。
 王宮では、儒教倫理に基づいて「徳」による支配を重んじる「徳治主義」が(建前上は)尊ばれたが、その実際は、「法秩序」の軽視だった。
 法や制度より「情」を重視する「国民情緒法」による政治は、戦後に発したものではなく、李氏朝鮮時代からの「伝統」なのである。
 朝鮮では、ある王を担ぐ「朋党」が失脚して、別の王を担ぐ「朋党」が実権を握ると、前政権が完全に否定される政治の断絶が、ひたすら繰り返されてきた。それは現代まで連綿と続いている。

1/5ページ

最終更新:2017/4/27(木) 15:58
WiLL

記事提供社からのご案内(外部サイト)

WiLL

ワック

2018年2月号
12月21日発売

特別定価840円(税込)

【新春特別企画】 咲き誇れ、日本!
【総力特集】 カラ騒ぎに終った「モリ・カケ」朝日報道