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旧秩序から新秩序へ:「敗戦」というチャンス

2/25(土) 6:00配信

BEST TIMES

2月25日いよいよ書店にて『角栄 凄みと弱さの実像』が発売される。戦後のシンボル田中角栄とは、いったい何者だったのか。著者と「時代のキーワード」とともに考察していく。1回目は「敗戦」である。文末の最後に毎回「角さんの教訓」があります! 

 

土建屋でも政治家になれる時代へ

敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間と太陽と緑が主人公となる“人間復権”の新しい時代を迎えることは決して不可能ではない。(田中角栄『日本列島改造論』)

 田中角栄が生まれた年は、1918(大正)7年、敗戦の玉音放送を「朝鮮(理研ピストンリング工場の移設工事請負)」で聴いた時は、1945(昭和20)年。当時、27歳。まさに戦中派世代であった。角栄と同世代=「大正生まれ」の男子は約1348万人。そのうち約200万人近くが戦死する(1/7の戦死率)という悲劇の時代を乗り越え、角栄は生き残ったのである。高等小学校を卒業後、早くから「土方(どかた)」として働き、19歳で自ら「土建屋」を経営した角栄は、1943(昭和18)年には「田中土建工業株式会社」を設立。年間施工実績全国50位以内にランクする中堅の土建屋ではかなりの優良企業だった。

 そして、1945(昭和20)年8月、敗戦を体験。もちろん角栄も1939(昭和14)年に陸軍騎兵隊として戦地に出征しているが、生き残っている。また前述した朝鮮からは終戦の11日目にはなんと日本に戻っている。さらに事業を始めた東京の飯田橋では、ほとんど空襲の被害も受けなかったのである。
 さらにさらに、戦争、敗戦へと道筋をつけた指導層が公職追放され、さらにさらにさらに占領軍による「新憲法」の公布(1946/11/3)、公布(1947/5/3)がなされたのである。
 「個人的な敗戦に対する思いはわかりませんが、角さんにとって、敗戦はチャンスだったんでしょうなあ」と平野貞夫氏は語る。

 このような混乱期に、事業を続ける「原資(お金などの資産)」があり、封建的な身分秩序が新憲法によって改正され、しかも旧秩序の指導層が「強制退場」。この時、角さん27歳の男盛り=若さもあった。
 角栄が、この時から27年後に北京で会うことになる中国の国家主席、毛沢東の言葉にいい仕事ができる条件として「若いこと、無名であること、貧乏であること」を述べているが、まさに角栄にとってはその3条件が「結果的」にすべて揃っていたのである。
 平野氏はそんな角栄にとってさらに大きな「推進力」を与えたものとして、「新憲法=日本国憲法」をあげる。
平野氏「角さんは、新憲法の申し子だったんです」

新憲法の申し子

----新憲法の申し子ってなんなんですか? 
平野氏「角栄は、戦後憲法のあり方を最も理解し、憲法を「最大限」に活用した男だったんです。国家の原理を示す「基本法」としての憲法を、生活の中の「実体法」のように使いこなす。さらに新しい法律を『議員立法』をバンバン作ったのです」

----議員立法? 
平野氏「角さんは33本も自分で作ったんですよ。これは、いまだに破られていない記録なんです」

●角さんの教訓1●
角さんは、混乱期の生きるべき時代ルールを見(けん)し、それを最大限利用したのである! 

 

書籍編集部

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