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元・阪神の葛城育郎が明かす「イチロー、金本らレジェントから学んだこと」【アスリートのセカンドキャリア考察】

3/5(日) 16:20配信

HARBOR BUSINESS Online

 葛城育郎が8年間ホームグラウンドとして過ごした甲子園球場から3駅。阪神「西宮駅」からほど近くに、葛城がオーナー店長を務める「酒美鶏 葛城」が見えてくる。

 店内にまず入り驚くのが、野球選手が経営する飲食店の有りがちなサインや野球用品が一切ないことだ。

 そればかりか、「ユニホーム姿での入店お断り」との張り紙もしてあり、一見すると元・野球選手のお店とはわからない。葛城にその理由を聞くと、「だってお客様の立場からすると嫌じゃないですか、野球関係者ばかり集まるお店って。僕も現役時代、そういうお店は入りにくかったので」とマイペースな口調で答えてくれた。

 現役時代と『ウォォォー』のヒーローインタビューで人気を博した葛城に、球史に残るレジェンド達とのやり取りについて回想してもらった。

◆プロになるという意識は希薄だった大学時代

 オリックスで4年間、阪神で8年間と計12年間プロとしての時間を紡いできた葛城は、スターティングオーダーから、代打、守備固めまでこなすマルチプレーヤーとして活躍してきた。

 自身のプレースタイルについては、「スキマ産業のような選手でした」と笑うが、在籍した球団では勝負強さが光るいぶし銀の活躍で人気を集めた。そんな葛城だが、岡山県立倉敷商業高、立命館大学時代は意外にもプロを意識したことはなかったという。

「もともとはプロを意識できるような選手じゃなかったんです。大学入学時は怪我もありましたし、何が何でもプロと考えるタイプでもなかった。実際に立命館でもスカウトは僕意外に目当ての選手がいて、たまたま僕にも声をかけてくれたくらいですから。入学時も、卒業後は社会人チームに進むということを前提に野球をしていました」。

 そんな言葉とは裏腹に、大学時代は名門立命館の中でも「伝説のキャプテン」と呼称されるまでのキャプテンシーを発揮する。春夏連続のリーグ優勝、自身も4度のベストナインに輝き、1999年にオリックス・ブルーウェーブに2位で逆指名での入団を果たした。

◆「よう、落球王!」と言いながらも起用してくれた仰木監督

 関西大学野球のスター選手だった葛城だが、キャンプ初日からプロの高い壁に直面することになる。

 当時のブルーウェーブの外野陣は、イチロー、田口壮、谷佳知と長いプロ野球の歴史の中でも有数とされる「鉄壁」と呼べる布陣だった。足の速さ、バッテイング、守備と全てにおいてレベルが違い、葛城は自分の力不足を痛感した。

「今思えばですが、プロに長くいられたのも、最初に自分の中にあった小さな自信を粉々にされた経験があったからかな、と思います。『プロの世界はこのレベルにないと長くはできない』と肌で感じることができたので」。

 葛城は、もう一つ、恩師の言葉が自身のプロ意識を形成したと話す。

「1軍で試合に使ってもらえるようになった当時、一試合に2度の落球を経験したことがあるんです。その際に仰木彬監督がわざわざ家まで来て、『よう落球王!明日も頑張れよ』と声を掛けてくれて、何食わぬ顔で次の日もスタメンで使ってくれました。悔しくて涙が出た反面、期待に応えたい気持ちが上回り、以降守備練習を死に物狂いで取り組むようになったんです。僕のプロ生活は挫折があったからこそ、守備固めや代打でも使ってもらえたと思いますね」。

◆イチローからは良い意味で「田舎のラーメン屋」と呼ばれた

 当時の葛城の実力を知る上で、興味深いエピソードがある。

 仰木監督がイチローに、葛城の守備力を聞くとイチローは、独特の味があって意外とウマいとの意味を込め、「田舎のラーメン屋ですね」と答えた。

 球界のレジェントが認めた実力は、入団2年目と早い段階からその片鱗を見えることになる。イチローが翌年にメジャーリーグに挑戦する際に葛城はレギュラーポジションを獲得することになるが、名手達の背中から学ぶことは多かった。

 2年目にレギュラーとしてシーズンを過ごすが、以降は思うような結果が残せず苦しんでいた。5年目の2004年に、同じく在阪球団である阪神タイガースにトレード移籍する。今でも、阪神時代の印象が強いとの声があるように、阪神での活躍がプロ野球選手葛城の名前を広めることになる。移籍した当時の阪神は黄金時代と呼べる充実器。まず感じたのは、パ・リーグとセ・リーグの明確な差異だった。

「正直、ブルーウェーブ時代は外食をしても声を掛けられるという経験は多くはなかったんですが、阪神に移籍してからはいたるところで声をいただく機会が増えた。メディアの数、ファンの熱狂具合も含めて、全てにおいて“見られているな”と感じました」。

◆「一番嫌だった対戦相手は、川上さん」

 更に球場の外だけでなく、野球の面でも適応に時間がかかったという。

「パ・リーグの投手はコントロール重視というより、球威で押してくるケースが多かった。それがセ・リーグでは四隅を丁寧につく、制球重視のスタイルが主流でした。ストライクゾーンも感覚的にボール一個分程度は広かったですね」

 当時は、阪神、巨人、中日の3強がセの覇権を争っていた。

 葛城は、特に「鬼門」と呼ばれたナゴヤドームでの中日戦には苦い思い出がある。

「僕が対戦した中で一番嫌だった投手は、川上憲伸さん。コントロールが抜群で、谷繁さんのリードも含めて厳しい相手でした。パ・リーグでは谷繁さんのようなリードをする捕手や、憲伸さんのような投球術で攻めてくる経験をしたことがなかったので、適応するのに時間がかかりました」。

 入団後2シーズンは、セ・リーグに慣れるのに時間を要したが3年目以降は徐々に慣れていき出場機会を増やしていく。特に2007~2009年は100試合前後の試合に出場し、チームの4年連続Aクラス入りにも貢献した。

◆ギネス記録を“止めた”男

 葛城に現役時代で最も印象に残った試合を尋ねてみた。2008年7月2日に中日・吉見一起投手から放った自身初のサヨナラヒットが印象深いファンも多いはずだが、葛城の答えは全く異なるものだった。それは、「よく面倒を見てもらった」という鉄人・金本知憲の連続試合出場記録を1776で止めた2010年4月18日の横浜戦。この日のことは、引退後時間がたった今でも鮮明に覚えているという。

 前日に金本と夕食を共にし、「明日はたぶん無理だから頼むな」、と声を掛けられた。予想通り葛城は金本に変わり、スタメンにレフトに名を連ねた。充分に準備はしてきたつもりだった。

 だが、未踏の数字を重ねてきた男の代役というその重責は想像以上のものだった。過去にないほどのプレッシャーを感じ、横浜ファンからもヤジが飛び交う異例の事態に発展した。

「僕はあまり緊張しないタイプなんですが、あの日は足がすくみ、試合内容もしっかりと覚えていません。長いプロ野球の歴史の中でも、あの場に立って金本さんの変わりが務まる選手なんて存在するわけがないですから」

 こうして、葛城は偉大なレジェントの記録を“止めた”選手として歴史に名前を刻んだ。

 極限まで張り詰めた糸が切れたのか、同年が葛城が1軍で試合に出場した最後のシーズンとなる。翌年オフ、千葉で行われた合同トライアウトを最後に葛城はユニホームを脱いだ。

 現役時代の実績からも、野球に携わることは可能だったはずだが、「もう野球はやり切った」という葛城は全く新たな人生を模索していた。(続)

<文・栗田シメイ>

ハーバー・ビジネス・オンライン