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菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評 第二弾:米国アカデミー賞の授賞式を受けての追補

3/11(土) 6:10配信

リアルサウンド

 リアルサウンド映画部の掲載稿(菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね)が米国アカデミー賞の発表前に書いた原稿なので、結果を踏まえた上で、追補を書くことにした。

 と、思っていたら、どういうわけだか、筆者のリアルサウンドでの連載中、最も多いビュー数と、いいね!数を稼いでしまったとか何とかで、有り難いと言えば言えるのだろうが、一度SNSを全部止めてみればわかるが、何が起こっているかわからない。

 ただ、数多く俎上に登ったのであれば、これは当然、数多くの支持者と、数多くの不支持者を生んだと思われるが、支持されるにせよ、されないにせよ、何れにしても、この映画に対し、以下の指摘はなかったか、或いは極端に少なかったのではないか? と推測する。

 それは何かと言えば「ハッキリ言えなくて気の毒だ、言っちゃえば良いのに」という事だ。

 え? なんて言っちゃえば良かったのか、って?

■『セッション』はエグくて興奮したが、『ラ・ラ・ランド』はオサレくさくて自分の趣味じゃない」に決まってるじゃないか

 後述するが、デイミアン・チャゼルの小悪魔ぶりはなかなかのものがあり、今回、相当多くの人々に「おやおや?」と思わせた筈だ。上記の本音を、絶対に言わせないように無言の圧力をかけたのだから。

 生贄にするつもりはないが、特に気の毒だったのは、WOWOW恒例の米国アカデミー賞の授賞式中継番組で、過去、『セッション』を、オールタイムベストぐらいの勢いで褒めた二人である。

 上記の本音を抑圧され、つまり、<『ラ・ラ・ランド』が主要部門独占の最右翼!>という世論=番組の流れ。に肯定的でいなければならず、一応、自分の意見は持っていますという態で、片方は「自分は『マンチェスター・バイ・ザ・シー』が推しです」という(彼のこの推しが嘘だとは全く言わないが)、発言によって、苦しい抵抗を試みるが、まあ、軽く針の筵であったろうことは想像に難くない(本人は否定するだろうが)。

 もう一人は、キャラクター上「有識者の立ち位置」を取らざるをえず、とはいえそんなもんお座敷有識者であって、<『ラ・ラ・ランド』が主要部門独占の最右翼!>という、世論に対し、 <おぞましくてハードコアなもんは好きだけど、ロマンティックでドリーミーでおしゃれ。というのは、僕はちょっと>という、彼を追っていれば、これが順当だろうと思うしかない発言を、とうとうできないまま、途中から(『ラ・ラ・ランド』の旗色が陰って来た辺りから)「ま、わかりませんよね。『それでも夜は明ける』が(『ゼロ・グラビティ』『ダラス・バイヤーズクラブ』『アメリカン・ハッスル』『her/世界でひとつの彼女』が有力、という)下馬評を抑えて受賞。ということもありましたから」と、予防線を張っていたりした。彼は普段、「予算が小さく、マニアックだが志の高い、つまりマイノリティ映画の味方」を自認しており、『セッション』から『ラ・ラ・ランド』へ、という流れが、その視点で言えば転向である事を批判しても良かった、というより、批判したほうがはるかに株が上がった筈だと思うのだが、げに世論とは恐ろしい物だ。

 両者の高い(皮肉ではない)映画選球眼ならば、『ラ・ラ・ランド』が、よしんばミュージカル映画史をどうこう言う教養主義から離れたとしても、感覚的に大したことない、という事は、ほぼ間違いなくわかっていた筈だ。チャゼルくんなかなか罪つくりでございます。ラース・フォン・トリアーと似ている。せっかくヴェットした人々を後々困らせるのだから。

■だあってですよ

 よしんば彼らが<自分が『セッション』を褒めたからといって、『ラ・ラ・ランド』も自動的に褒めるという話ではない。自分は苦手だし、それ以前に評価できない>とか何とか、誠実に発言したとしても、それでもまだ、この回答は不正解なのである。何故なら、筆者の指摘通り、テイストが違うだけで、両作はほとんど同じ構造を持った、ほとんど同じ作品なのだから。

 「え? 構造よりもテイストですよね? どんなもんだって」という指摘が入るだろう。その通りだ。『気狂いピエロ』と『新ドイツ零年』の構造はある意味でほぼ一緒だ。だが、多くの人が躊躇なく言う。『気狂いピエロ』のが、ロマンティークでスタイリッシュで、自分はそっちのテイストが好きだと。何故か?『新ドイツ零年』は世論が大絶賛していないし、受賞レースの権威も無いからである。

 これが、「本音抑圧」のシステムである。結構な仕打ちだと言えよう。

■そして、あの「世紀の大珍事」は

 オーメンの主人公と、牛と仔牛を縦に真っ二つに切断したり、輪切りにした動物やそれを腐敗させたものの展示で天下を取った現代美術家と同じ名、デイミアンの呪いとしか言いようがない。

 あの「単にもらえないよりも数倍きつい」梯子からのエゲツない突き落としは、「アカデミー賞史上最年少で監督賞獲得」という栄誉と引き換えに交換されたとしか思えない。デルタブルースの起源として有名な、クロスロードの伝説に似ている(悪魔に魂を売り渡すかわりに、歌とギターの天才的な腕前を貰える)。悪魔に魂を売ったのである。と、以上、大変長くなったが、『ラ・ラ・ランド』という映画に関する大変重要な余談である。

■追補に入る

 結果として『ラ・ラ・ランド』は米国アカデミー賞13部門ノミネートの中から、監督、主演女優、作曲、主題歌、美術、撮影の6部門を獲得した。

 筆者は本稿で書いた通り、主演女優は『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』のナタリー・ポートマン、作曲も『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』のミカ・レヴィの方が遥かに優れていると思うが(こんな映画音楽聞いたことない上に、ものすごく美しく効果的である。つまり、未来的だ)、監督は悪魔と取引して、世紀の大珍事(『珍事』と言うには痛すぎる、悪夢的なものだが)と引き換えに獲得しているので致し方ないし、主題歌は対抗馬にディズニー系レリゴー再びしかないので、順当と言える(美術と撮影も、まあ『ムーンライト』のが全然攻めの姿勢で素晴らしいとは思うが、肝心の作品賞をとっているので、さしひき順当、と評価している)。

 アンチの立場をとる筆者でさえも、『ラ・ラ・ランド』の、「ミュージカルシーンの音楽」の質は認める。中でも一番良いのは、冒頭のワンパンを食らわせる「アナザー・デイ・オヴ・サン」である。歌詞が「ドント・ストップ・ビリービン」(『glee/グリー』の実質上の主題歌)のパクリだとしても問題ない。この曲はウエルメイドである。元ネタはミエミエだが、それも全く問題ない。良くできていれば良いのだ。

■とーこーろーが。だ

 最優秀主題歌賞にノミネートされたのはこの楽曲ではない。ダブルノミニーは、主人公二人が歌う「シティ・オヴ・スターズ」と、エマ・ストーンがオーディションの時に歌う「オーディション」で、受賞したのは「シティ・オヴ・スターズ」だけだが、この2曲は、作曲構造の完成度としては「アナザー・デイ・オヴ・サン」に劣る。

 「そんなもん、作曲の優劣に構造なんか関係あるかい」と言う指摘が入るだろう。その通りである。筆者は仕事柄、楽曲の構造を聴取/分析する耳を持っているが故に、だが、作曲の優劣と構造の巧みさが、絶対的な関係ではないことは熟知している。音楽には魔法の領域がある。

 とはいえ構造の完成度と楽曲の優劣は絶対的な無関係でもない。作りが雑な曲はやはりそれなりの馬脚を現すのだ。以下を根拠とする(とはいえ以下、アカデミー賞授賞式と、グラミー賞授賞式をどちらも見ている、つまりWOWOWコンシャスな方にしか手に取れない証拠で申し訳ないが)。

 今年、ジョン・レジェンドはグラミー賞授賞式では、今年の死者追悼の場面でザ・ビーチ・ボーイズの「ゴッド・オンリー・ノウズ」(伝説の『ペット・サウンズ』収録。ポール・マッカートニーはこの曲を聴いて「今まで聴いた曲の中で最も美しい」と絶賛した)をピアノで弾き語りし、アカデミー賞授賞式では前述のダブルノミニー、「シティ・オヴ・スターズ」と「オーディション」を歌った。

 現在、ソウル/R&Bで最高クラスの歌唱力を持つジョン・レジェンドによる両者を(おそらく既に上がっているだろう動画サイトかなんかで)聴き比べてみてほしい。「ブライアン・ウィルソンと比べちゃ気の毒だろ」等と言うなかれ、アカデミー賞最優秀主題歌賞である。

 そしていうまでもないが、前者のパフォーマンスは背筋が凍るほどの感動と美しさ、後者は、どうしちゃったのよジョン。というほどスッカスカなのである。これがレジェンドのコンディションとか、ショーの演出などが原因ではなく、楽曲そのものに原因が集中しているのは言うまでもない (セット以外は全部同じ、というぐらい、両者の演出は同じで、レジェンドは「今日はコンディション悪そうだな」と言ったタイプではない。精密機械だ)。

■とはいえこれは「曲の優劣」とかいうシンプルな話ではない

 むしろ「曲の強弱」といったほうが若干正しい。

 ジョン・レジェンドという、特にバラードの天才的名手が歌う事が定点観測的な比較基準となったが、「ゴッド・オンリー・ノウズ」は、誰が歌おうが感動を担保する、強い曲である。

 に、対して「シティ・オヴ・スターズ」と「オーディション」は、作りが稚拙で弱い事を露呈してしまった。繰り返すが、それは勿論、優劣ではない。ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンという、「そこそこ味のある素人」が歌うと、この曲はもの凄く輝くのである。つまり、ヘタウマ対応であり、演繹的に『ラ・ラ・ランド』専用、とも言える。

 特に、エマ・ストーンが歌う「オーディション」は、歌詞の意味も、メロディラインもよくわからず、脚本と歌唱のヘタウマが、楽曲の弱さと共鳴しあって七難隠したが、ジョン・レジェンドという高性能装置にかけると、構造上の稚拙さ(専門的に言うと、各パートがあまり練られておらず、転調の刺激だけで進行力を作っている。チャゼル・マナーのそっくりそのままトレーシングであり、ある意味凄い)がむき出しになってしまう。

 「ポップ・ミュージックを国宝や文化遺産と考えてしかるべき合衆国で、こんな弱い曲がアカデミー賞最優秀主題歌賞をとったら音楽批評家としての筆を折る」とカマしておいても博打には勝ったが、そもそもこの曲がノミニーになっていることさえ知らなかったのである(ダブルノミニーと聞いていたので、てっきり片方は「アナザー・デイ・オヴ・サン」だと思っていた)。

■このことが示すことは

 『ラ・ラ・ランド』が、ヤオイである以前に、ヘタウマであり、さらに言えば「ダンスは、危なっかしさがありながら、結構いける。歌はいっそヘタウマのがいい。ピアノは、、、、まあ、どっちでもいんじゃない」という、「スキルフルである事への階級=ヘタウマ度数の階級」が根底にあることを示しており、同時にそれは、「なんだって全部スキルフルでないといけない」という、現在のエンターテインメント全体を覆っている、構造的な硬化(主に、経済的、政治的な厳しさとリンクしている。平和で潤っている時代にはヘタウマが賞揚され、戦前的で厳しい時代には芸能はハイスキル化が止まらなくなる)へのアンチとなって、奇妙な治癒感覚をもたらすのである。

■この治癒感覚が

 チャゼルの魔術である。本稿で筆者は「こんなもんに胸をキュンキュンさせている奴は、よっぽどの恋愛飢餓で(後略)」と書いたが、これは勿論、恋愛未経験者(処女/童貞性)を指しているのではない。

 生まれてから一度も飯を食ったことがなく、飯というものの存在すら知らぬ者には、おそらく飢餓感はない(そのかわりに気がつく前に死亡するが)。

 あらゆる飢餓感は、喪失の結果だ。恋愛飢餓は、過去に恋愛を貪り、現在は貪れなくなっている者こそが重症化するのである。古いネット的な言い方をすれば、ガチンコの飢えは、かつてリア充だった者の特権であり、最初から獲得していない非リア充の半端な飢えとは比べようもない。

 この、図ったのか図らなかったのか判然としないまま、マーケティングで大勝利を収めた本作の構造は、ここまで書いてきたことと以下のような図式的な関係を結ぶ。

1)恋愛飢餓者は、前述の理由で、何せ恋愛に強く飢えている

2)彼等は飢えすぎて、欲しがるのは三つ星レストランの凝りに凝った、つまりスキルフルな皿よりも、ラーメンや牛丼を欲しがる

3)これは「ファストフード」というより「リアルフード」というべきである

4)共感性の高いリアルな恋愛とは何か?

5)それは、「わけがわからないような経験」に他ならない。市井に溢れる一般人の恋愛が、映画のようであるはずがない。恋愛は狂気だ。一般人と一般人の、狂気のぶつかりあいなのである。非合理的で、非物語的で、非共有的であるに決まっているではないか

6)つまり「よくできた恋愛映画の脚本」というのは、ある意味でアンリアルなのである

7)「アンリアルだが、心理学的な裏打ちに基づいた、因果も観客誘導も起承転結も明確な、脚本上の恋愛描写」というのは、満腹者にはプロのスキルというエンターテインメントの力が及んで、移入させるが、飢餓者にはめんどくさいだけだ

8)本作の「なんだかよくわかんねえなあ、どうなってんだよこの恋。杜撰だろ脚本」というに吝かでない、「恋愛ドラマの部」の作りは、「リアル恋愛」と同格にある。実際の恋愛とは、こんなもんだ

9)「悪くないが、弱い楽曲」もその援軍となる

10)「素敵な俳優による、稚拙さを内包した歌と踊り」も、その援軍となる(ゴスリングのピアノ、は、あんま援軍にならない。上記の「階級」 参照)

11)<無名だがとんでもない実力を持ったブロードウエイのミュージカル俳優が主演の『ラ・ラ・ランド』>が、当たったと思えますか皆の衆?

12)ここに、アイドル音楽(スーパーハイスキルと、努力=アスリート性。日本だけの話ではないよ勿論)によって恋愛飢餓を満たせるタイプと、そこに乗れないタイプとの分離状態が明確となる。

13)現在のエンターテインメント界は、スーパーハイスキルとアスリート性の時代である。不景気だから必然である。つまり偏りだ。

14)この偏りに、チャゼルくんは直感的な癒しを与えた。「ヘタウマのミュージカル」という、コペルニクス的転回によって(実際には、9/11直前まで高い視聴率を誇っていたテレビドラマ『アリー・マイ・ラブ』等の先駆もあるが、これはそれこそ9/11前であり、リーマンショック前であり、つまり比較的安定的な社会の産物なので、コペルニクス的ではない)。「脚本の杜撰」なんか、気がつくもんか。

 事ここに及び、デイミアン・チャゼル監督がモダンジャズへのストーキング的な侮辱を行っているという程度の罪状は、後景に吹き飛んでしまう(実は重要なオブセッションなのだが、とりあえず本稿内では)。彼の正体は、大衆の無意識的な、しかし激しい飢餓感に訴える天才なのである。

 『セッション』では、ハラスメントによる恐怖と屈辱、それへの復讐、という飢餓感への麻薬を売り、本作では、恋愛飢餓に炊き出しの豚汁を、スキル疲れという構造疲労には粗悪な覚せい剤を与えた。

 「そんでいいじゃん。それが時代を撃つクリエイターなんじゃないの? あんた、ジャズ警察を退職すれば、チャゼルの理解者で賛美者だよ。誰よりも」という指摘が入るだろう。その通りである、と言いたいところだが、こればかりは全く違う。

 勿論、パンク映画、ヘタウマ映画があったって良い。しかしエンターテインメント、特に娯楽映画の権威を、いくら大ヒットしているからといって パンクやヘタウマに与えるのは、一瞬の刺激にはなるだろうが、長い目で見れば止めたほうが良い。昔日はクロード・ルルーシュの『男と女』(カンヌでグランプリ。世界中で大ヒット)が「長尺のTVCM」と揶揄され、さらに昔日には『勝手にしやがれ』(ベルリンでグランプリ。映画史が大騒ぎ)が(悪い意味で)パンク扱いされた。それで良いのである。

 そして、合衆国のアカデミー会員たちが『ラ・ラ・ランド』に下した処遇は、ご存知の通りである。

 ひとことで言えば、合衆国の判断は「相当したたかだな」と思いつつも、ほぼ全面的に支持するしかない。

 「ヘタウマとフレンチ・ミュージカルの関係」が本作に与えた影響、チャゼルが移民であるかどうか、なぜ、ヘタウマ階級で、ダンスが最高位に立つのか等々、まだ書き足りないが、とりあえず、ここまでとする。

 最後に強調したいのは、『セッション』に欲情させられた粗悪なワイルドと狂気(苦笑)がお好きな御仁は、あわやデイミアンに裏切られたかと思ったことだろうが、ご安心。ということだ。筆者はパトロールなどという暇なことしないから、どこにそういう者がいるか探し出せる能力はないが、今回の最高の賢者がいるとしたら、チャゼルくんが自己更新もしくは変化した、と考えなかった人々である。デイミアンの、餓えた民への麻薬投与は続くだろう。麻薬は線状の物語(日常)を絶つ道具であり、キメた瞬間のドランキング効果と「すげえ経験をした」と勘違いさせる魔法によって、民を大いに依存させ、心身をボロボロにさせる。悪質なドラッグ然とした顔つきの『セッション』と、心に優しいお薬みたいな顔つきの『ラ・ラ・ランド』と、どちらが悪質かについては、読者の判断を仰ぐ。

菊地成孔

最終更新:3/11(土) 6:10
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