ここから本文です

奥寺康彦と長谷部誠をつなぐ称賛 独名将を魅了した「1人で3人分」の万能性

3/12(日) 11:01配信

THE ANSWER

1977-78シーズンにドイツへ渡った奥寺、ケルン1年目で国内2冠を達成

「オク(奥寺)が1人いれば、3人の選手を獲ったのと同じだ」―オットー・レーハーゲル

【画像】リオ五輪に出場した日本人イケメンアスリート

 奥寺康彦氏は、生粋のFWとして1977年にドイツへ渡り、最初のシーズンでいきなり1FCケルンの国内2冠に貢献した。当時ドイツのクラブは欧州内でも屈指の実力を誇り、ケルンはバイエルンやボルシア・メンヘングラードバッハと覇権を争う人気チームだった。

 ちなみにドイツを制したケルンは、翌シーズンの欧州チャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ/CL)に出場し、順当に準決勝に進出。ノッティンガム・フォレスト(イングランド)とのアウェー戦では奥寺の同点ゴールで3-3と引き分け、決勝への視界が開けたかに見えたが、ホームでの第2戦で0-1とまさかの敗戦。惜しくも記念すべき第1回トヨタカップ(現FIFAクラブワールドカップの前身で、欧州と南米王者による世界一決定戦)への出場を逃すのだった。

 順調にドイツでのキャリアを積み重ねていた奥寺だったが、自身をケルンに導いた名将ヘネス・バイスバイラーが80年に北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスに去ると、状況が一変する。奥寺は出場機会を確保するために、自ら交渉をして2部のヘルタ・ベルリンに移籍。ここからマルチプレーヤーへと変貌していくのだ。

万能ぶり発揮した奥寺に指揮官も全幅の信頼

 ヘルタでの1シーズンを経て、81年にオットー・レーハーゲル監督率いるヴェルダー・ブレーメンに移籍。再びドイツ1部の舞台に戻ると、「左右のウィングバックが中心だったけれど、センターフォワードやセンターバックも務める」(奥寺)万能ぶりを発揮し、指揮官からも全幅の信頼を寄せられるようになる。

 当時のドイツでは、まだマンマークの発想が染みついていたから、なかなかゾーンの考え方を理解できる選手が少なかった。

「守備ではスイスチーズ(ところどころ穴が空いている)のようになってはいけない」

 レーハーゲル監督の指示を完璧に実践するのが奥寺で、だからこそ指揮官は「オクがいれば3人分」という冒頭の言葉を発するのだ。

 フランクフルト時代に監督として長谷部誠を指導したトーマス・シャーフは、現役時代はブレーメンで奥寺とチームメイトだった。

1/2ページ

最終更新:3/12(日) 11:01
THE ANSWER

記事提供社からのご案内(外部サイト)

THE ANSWER

株式会社Creative2

アスリートを目指す子供たちや競技者の育成とスポーツの普及をテーマとした総合スポーツニュースサイトです。