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「フジタ」撤退から激動の10年。それでもベルマーレは消滅しなかった

3/14(火) 11:51配信

webスポルティーバ

短期連載・Jリーグ25年目の「希望」

■ベルマーレに『フジタ』が戻ってきた(2)


 1998年は光と影が交錯した年だった。

【写真】「フジタ」の感動物語(1)

 6月、日本代表がW杯に初めて出場する。結果は3戦全敗だったが、日本サッカー史に輝かしい1ページが加えられた記念すべき瞬間だった。

 ベルマーレ平塚からも中田英寿、小島伸幸、呂比須ワグナー、それに洪明甫(ホン・ミョンボ/韓国代表)の4人がW杯の舞台に立った。大会終了後には、中田がイタリアへ渡る。戦力的には痛手だったに違いないが、W杯と日本代表の盛り上がりの中、チームも、サポーターも、誇らしさとともに彼を送り出した。

 しかし――その秋、暗転する。

 悲劇の第一報がもたらされたのは、フィリップ・トルシエ新監督の初采配、エジプト戦の夜だった。

<横浜フリューゲルス消滅。マリノスとの合併>

 バブル崩壊の余波が、親会社のひとつである佐藤工業の経営を圧迫。リストラの矛先はサッカーチームにも及んだのである。

 Jリーグ創設から6年目。クラブ数は当初の10から18へと順調に増えていた。さらに全国各地に「Jリーグを目指すクラブ」も続々誕生。草創期の猛烈なブームこそ去ったものの、“地域密着“を謳(うた)い、“企業スポーツからの脱却“を掲げるJリーグの活動は成功裡に進んでいるように見えた。

 だが、内実は違ったのだ。観客動員が減少したからでも、テレビ視聴率が低下したからでもなく、親会社の経営不振によってチームが消滅した。要するに、クラブ経営は相変わらず親会社からの支援に依存しており、いかに“脱却“を掲げていようと、Jリーグは“企業スポーツの延長線上“にあった......。

 フリューゲルスの消滅は、そんな現実を露呈することとなったのである。

 そして、佐藤工業を覆った暗雲は、同じ建設業のフジタの頭上にも広がっていた。

「これまでとは違う経営をしなければならなくなったので説明させてもらいます」

 ベルマーレ社長の重松良典はそう切り出した。1998年11月27日、平塚のクラブハウスで行なわれた会見である。

 続けて、「フジタが合理化を進めていて、今後はベルマーレの支援が難しくなった」ことを告げた。バブル崩壊後の不良債権処理が引き金となって起きた“ゼネコン危機“にフジタも飲み込まれたのだ。

 それが、ベルマーレを直撃することはフリューゲルスの例から見ても明らか。佐藤工業とフリューゲルスに起きたことが、フジタとベルマーレに起きても何の不思議もない。そんな状況だった。

 しかし、重松の話は少し違った。滔々(とうとう)と2時間。語気を強めることもなく淡々と、こんなふうに話し続けたのだ。

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