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【国際プロレス伝】別れのとき。アニマル浜口が社長から託された夢

webスポルティーバ 3/15(水) 11:31配信

【第5回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

「吉原社長のそばにいたい」。アニマル浜口は、男の美学を貫く国際プロレス社長・吉原功(よしはらいさお)に惚れ込んでいた。しかも、仲間の面々は気の置けない”酒豪”ばかり。プロレスの喜びを知り、楽しい時間を過ごす日々……。しかし、ついに別れのときがやってくる。

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◆「アニマル」の名付け親・吉原功(5)

 第3勢力ながら独自のカラーを鮮明に打ち出し、1974年にエースのストロング小林が離脱した後も全員が一丸となって戦った国際プロレス。だが、人気面でも経営規模でもジャイアント馬場の全日本プロレス、アントニオ猪木の新日本プロレスに大きく水をあけられ、マイナー感に拍車がかかっていた。

 TBSから系列局を持たない東京12チャンネル(現・テレビ東京)にテレビ放映権が移行し、ついには東京12チャンネルのレギュラー中継も打ち切られると、1981年8月9日、北海道・羅臼(らうす)町の羅臼小学校グラウンド大会を最後に興行中止。9月30日、正式に国際プロレスは解散となり、15年に及ぶ歴史に幕が下ろされた。

「国際プロレスとして最後の興行となった羅臼大会、僕は肝臓を患ったりして長期欠場中だったんです。だから、申し訳ないし、情けないんだけど何もできず、よくわからないこともあるんです。その後、吉原社長の意向であり、社長が敷いてくれたレールなんだと僕は思って、ラッシャー木村さんや寺西勇さんと『国際軍団』を組んで新日本プロレスに乗り込みました。国際プロレスの誇りを忘れず、国際プロレスの魂を持って戦いましたが……。

 吉原社長はその後、1984年かな、新日本プロレスの顧問になられたときに、女房がやっていた浅草の『香寿美』という店に来てくれたんです。僕は店の3階の自宅にいて、『社長がいらしたわよ』と女房が教えてくれたんだけど、1階に降りて行けませんでしたね。社長の心情がわかっていたから。

 それから1年もしないうちに、社長は胃ガンで倒れられました。木村さんと最初にウイスキーを持って見舞いに行ったときは、まだお元気で。『よく来たな』なんて喜んでくれて、『俺も練習しなきゃいかん』と言っていましたし、ベッドから起きて見送ってもくれました。それが2度目にうかがったときは、ガンが全身に転移されて、『もう誰にも見せられない』と奥さんがおっしゃりながらも、僕と木村さんだけは病室に入れてくれたんです。ガンとの壮絶な戦いを見せられました。それが、お会いした最後でした」

 吉原功、1985年6月10日死去。享年55歳。

「55歳ということは、僕なら2002年、京子が釜山アジア競技大会で金メダルを獲得し、ギリシャのハルキダで行なわれた世界選手権で優勝した年か。

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最終更新:3/15(水) 14:11

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