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【インタビュー】欧州の底辺から日本代表を目指す。ブルガリアで奮闘する加藤恒平

footballista 3/16(木) 11:45配信

敷かれたレールの上を行くのではなく、新しいレールを作りたい

昨年9月、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督が、日本代表のメンバー発表会見で1人の無名選手の名前を口にした。「ブルガリアのカトウもチェックしている」。その選手こそ、ブルガリア1部リーグのベロエ・スタラ・ザゴラでプレーする加藤恒平だ。日本ではJ2での実績しかない“雑草”は、欧州の辺境で道なき道を歩み続ける。


夢と現実の狭間で
海外でプロになるために大学は遠回りだった


──おそらく加藤選手の経歴はほとんどの読者が知らないと思います。まずはサッカーを始めたところから教えてもらえますか?
「和歌山県の新宮市の出身なんですけど、地元のサッカー少年団で小学1年生から始めました。当時はお山の大将というか、何でもできちゃう感じでしたね。だけど、プロになることを考えたら、ここにいたらマズイなっていうのはありました。勝つにしろ負けるにしても、強い相手ともっとやらないと自分がどのレベルなのかもわからない。それで中学校に上がる時に、Jリーグのセレクションを受けようと思ったんです」

──ジェフ千葉のジュニアユースだったんですよね。どうして関西のチームではなく千葉だったのでしょうか?
「母方の祖母が千葉に住んでいたので、そこからなら通えるだろうと」

──ジェフで実力は通用しましたか?
「明らかに一番下手でしたね。和歌山の田舎とはレベルが違い過ぎました。関東選抜の選手とか、エリートプログラムに入っている選手とか、凄い選手がゴロゴロいて、最初の頃は18人のメンバーにも入れなかった。その時ですね、『自分はうまい選手じゃない』と気づいたのは」

──シビアな現実を突きつけられた中で、どうやってアピールしたのでしょう?
「当たり前のことですけど、毎日100%練習はしていましたし、自分に何が足りないのかを考えて、練習以外の時間も課題を持ってやっていました。2、3年目で徐々にスタメンになるようになって、ユースにも上げてもらえました」

──でも、ジェフではトップチームに上がることはできなかった。
「そうですね。僕の代だと、乾達朗(現タイ・ホンダFC)と高田健吾(引退)がトップに上がりました。チームは違いますけど、流通経済大学の大前元紀(現大宮アルディージャ)も同期です」

──その後、立命館大学に入学しました。3年生の時にアルゼンチンに留学をしたんですよね。
「もともと海外でプロになることが夢で、将来的にはスペインに行きたいと思っていました。最初からスペインに行くのは厳しいと思ったので、僕なりに調べたらアルゼンチンはスペイン語だし、ヨーロッパにたくさん選手も送り出しているし、ちょうどいいかなと。最初は3年生の時に2カ月の短期で行って、卒業に必要な単位を取った後、プロ契約を目指してもう1回に行きました」

──Jリーグでプレーしてからでも遅くないのかなと思うのですが……。
「いや、遅いですね。アルゼンチンに行くと、19歳の選手がプロとして3クラブとか渡り歩いている。大学の4年間も自分にとって必要な時間だったので後悔はないですけど、もっと早く行っていれば良かったという気持ちはあります」

──アルゼンチンではどこでプレーしていたんですか?
「僕が行ったのは『セファール』と呼ばれるチームです。僕のようにプロになりたい選手が世界中から集まっていて、混成チームでクラブチームと試合をする。そこで自分を売り込んで、プロ契約を勝ち取るのが目的です。それで、4部のサカスチパスというチームの監督から『家と食事と給料を出す』という条件でオファーをもらいました。実は3部のチームからも話はあったんですけど、試合に出るなら監督が信頼してくれている方がいいだろうと思って行きました」

──海外でのプロになるという夢をつかんだ。
「でも、クラブに行ってみると会長は『そんな話は聞いていない』と。『日本人にお金は出せない』と言われて、試合出場に必要な就労ビザも出してもらえませんでした。最終的には7カ月もプレーできなくて、日本に戻らざるを得ませんでした」


アルゼンチンから町田へ
日本でプレーするのは1年と決めていた


──その後、J2のFC町田ゼルビアに練習参加を経て加入することになりました。
「最初は1週間見たいと言われたんですが、正直言って全然ダメでした。アルゼンチンとはサッカーがまったく違って、それに慣れるのに時間がかかって……」

──どんなところが違ったんでしょうか?
「アルゼンチン人は一人ひとりがボールを持つんですね。そして、自分で持てなくなったらパスを出すのが基本。だけど、日本ではボールをチームで回すので、僕だけプレーのテンポが違って合わなかった。あとはパスの質ですね。アルゼンチンの選手はとりあえず相手に届けばいいという感じで、適当に出すんですよ。その代わりトラップの技術が高くて、酷いボールでも止めちゃう。日本だとパスを丁寧に繋ぐので、そういう感覚がなくなっていて、パスミスを連発しました」

──それでも町田に入れた理由は?
「自分ではわかりませんが、球際のところで強く行けるところが評価されたのかもしれません。でも最初のうちは、削ってばかりでしたね……。監督のオジーさん(アルゼンチン人のオズワルド・アルディレス)から『削るな』と怒られるぐらい。もちろん、わざと削ろうと思っていたわけじゃなくて、タックルに行くタイミングが合わなかったんです。でも、だんだんボールを奪えるようになってきて、契約してもらえることになりました。最終的には3週間かかりましたね」

──球際の強さというのは、もともと持っていたストロングポイントだったんでしょうか?
「実は、アルゼンチンに行くまではサイドハーフを主にやっていました。だけど、あっちの監督にボランチをやれと言われてコンバートされたんです。僕自身もサイドに限界を感じていた時期でした。特別足が速いわけでも、クロスがうまいわけでもないですし。サイドの選手は一芸があると生き残れると思うんですが、僕にはそれがなかった。ただ、走ることは得意だった。真ん中をやってみろと言われた時はチャンスだと思いましたね。しかもサイドは試合によってはボールが来なかったりして、不完全燃焼で終わる試合もあった。真ん中は自分の行きたいところに走り回れますからね」

──J2では29試合に出場しました。
「ゼルビアではいろんなポジションをやりましたね。ボランチ、SB、CB……。FW以外はほとんどやったかもしれません」

──ただ、海外挑戦のために1シーズンで町田を退団しました。契約延長のオファーはもらっていたんですか?
「はい。でも、自分の中で町田では1年と決めていました。入ったのが23歳だったので、24歳でもう1年プレーしたら25歳になってしまう。それ以上は遅らせられないと考えました。それでも降格した後は悩みましたね。どちらを優先するのか。自分の夢なのか、町田をJリーグに上げることなのか。悩みましたけど、町田の出身の選手が世界で活躍して代表に行ければ、それはそれで恩返しになるのかなと思って、海外挑戦を決断しました」

──“それ以上は遅らせられない”というのは?
「現状を考えたら、日本からヨーロッパに行くのは日本代表に入っている選手がほとんどですよね。僕の場合、それを待っていたら、いつになるのかわからない。それに日本でいくら良いプレーをしていても、ヨーロッパのスカウトは1回持ち帰って、本当にヨーロッパで通用するかを検討します。Jリーグはヨーロッパとはサッカーが全然違うので、代表選手以外が大きいリーグに行くのは、かなり難しい。日本代表の選手が行けるのは、国際試合でやれているなら海外でやれるだろうという計算があるから。ヨーロッパに行きたいのであれば、どこでも良いから潜り込んで、そこでやれることを証明して、少しずつステップアップする方が早いんじゃないかと考えたんです」


欧州の底辺からのスタート
モンテネグロがどこにあるかもわかってなかったが、行った


──町田を退団してから半年後、移籍先として発表されたのがモンテネグロ1部リーグのルダル・プリェブリャでした。
「スペインに行きたかったので、トライアウトを受けられるチームを探して、合格をもらいました。でも、最後の最後で年齢を聞かれて『24歳』と言ったら、『23歳以下の選手を探していた』と言われて……。プロフィールをチェックしておけばわかるだろうと思ったんですけど、文句を言っても変わらないので。その時点で、町田を辞めてから半年が経っていたので、とにかくプレーする場所が必要でした。それで、『モンテネグロだったら入れる』と言われて。どこにあるかもわかってなかったですけど、行きました」

──モンテネグロはどうでしたか?
「Jリーグの方が環境的には何倍も整っていますね。スタジアムも古くて、日本だったらプロの試合ができないようなところばかりでした。ただ、アルゼンチンはもっと厳しい環境だったので、あの頃に比べたらマシだから僕としては苦になりませんでした」

──そこにずっといるつもりはなかった?
「もちろん。長くても1年、できることなら半年で出て行こうと考えていました。だから、『代表活動期間中は他の国でテストを受けてもいい』というのを契約条件に入れてもらいました」

──そんなことができるんですね。
「交渉次第ですね。ただ、何チームか練習参加したんですけど、うまくまとまらなくて。1年のはずが、1年半になって、2年になって……。自分の思い描いていたようにはなりませんでした」

──うまくいかないことだらけなのに、それでも心が折れなかったのは?
「テストに行ったチームで『やれる』という手ごたえがあったんです。オーストリアのシュトルム・グラーツでも、デンマーク2部のチームに行った時も、コペンハーゲン相手に良いプレーができた。『やれる』とわかっているのに、諦めたら絶対に後悔するじゃないですか。あとは、僕を支えてくれた人の存在がありました。所属チームがない時から僕のことをずっとサポートしてくれる方がいて、『日本代表に入る』と言い続けていたんですね。普通は『こいつ何言ってるんだ』ってなるはずですけど、信じてくれて、お前ならやれるよって言ってくれた。そういう人がいなかったら、たぶん折れていたでしょうね」

──代表歴がまったくない、J1でプレーしたこともない選手が、日本代表になるというのは無謀な挑戦にも思えます。
「僕は日本での実績はないですけど、5大リーグでプレーしていれば無視はできないと思うんです。僕がずっと考えているのは、自分がどうなりたくて、それを達成するためには何をすればいいのかということ。小学校の時はプロになりたくて、そのためにはジェフに行こう。スペインに行きたいから、アルゼンチンに行こう。日本代表に入りたいから、ヨーロッパに行こう。目標に至るプロセスは明確に描いていました」

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最終更新:5/25(木) 16:45

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