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関門海峡を抑えろ! 古代北九州勢力の「積極的にヤマトを締め上げる策」

3/19(日) 12:00配信

BEST TIMES

常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!?  「ヤマト建国は地形で解ける」をシリーズで紹介いたします。

日本の流通を支えた関門海峡

 弥生時代後期に、出雲は急速に鉄器を獲得していく。
 そして、吉備にも、鉄が流れ込み、ふたつの地域が一気に発展する。出雲の四隅突出型墳丘墓が巨大化し、越こしに伝播した。
 そしてヤマト建国直前の吉備には、楯築弥生墳丘墓(岡山県倉敷市)が出現し、これが前方後円墳の原型になったのではないかというのは前述した通りだ。
 ところが、ヤマトには、鉄はほとんど入っていない。ここに大きな謎がある。
 こういう説がある。北部九州勢力はヤマトに鉄を渡さないために、「地理」を利用したのではないか、というのだ。
 つまり、川のような狭い関門海峡を封鎖し、瀬戸内海経由でヤマトに鉄が流れることを阻止した。そして、日本海ルートを潰すために、出雲と手を組み航路を監視させ、その見返りに、出雲には鉄を流し、また、そのおこぼれにあずかったのが吉備ではないか、というのだ。
 大いにあり得ることだし、有力視されている考えだ。

関門海峡の日本全体における地形的役割

 日本を見渡せば、因縁めいた地形は各所に散らばっているが、関門海峡は、もっとも特徴的な場所だ。ちなみに、「関門」は、「関所のようだったから」つけられた名ではない。「下関(しものせき)」と「門司(もじ)」の間に横たわる海峡だから、「関門」となった。
 ただし、昔は馬関(ばかん)海峡と呼ばれ、さらに古くは「赤間関(あかまのせき)」と呼ばれていた。
 物部系の赤間氏が支配していた場所で、「関」と名がつくところから、ここが交通の要衝であり、しかも、通行を制限、管理されていたことが分かる。
 関門海峡は東は満珠島(まんじゅしま)のあたり、西は馬島(うましま)、六連島(むつれじま)までの約二五キロに渡る水域だ。

 周防灘(すおうなだ)(内海)と響ひびき灘(外海)を結ぶ海峡で、内と外両方に「灘(航海の難所)」とあるのは、潮流が早いためだ。
 関門海峡でもっとも幅の狭い場所は六〇〇メートル。潮の満ち引きで、最大約九・四ノット(一ノットは時速約一・八キロ。自転車並みのスピードで潮が流れることになる)の流れが生まれるという、海の難所でもある。
 源平合戦最後の壇ノ浦の戦いは、まさにここでくり広げられた。潮の流れに乗った源義経が勝利したことは、よく知られている。
 平家はここから九州に逃走すれば助かっただろうに、滅亡の道を選んだのは、交易によって富を蓄えようとした政権ゆえに、関門海峡を失えば、生きていけないことを知っていたからだろう。
 幕末の文久三年(一八六三)、長州藩は攘夷を実行するために、馬関を通過する外国船に砲撃を加えた。
 翌年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊が長州藩の砲台を砲撃し、上陸した(下関戦争)。
 このあとイギリスは長州藩に関門海峡の首根っこに当たる彦島の借款を要求したが、高杉晋作が断固拒否し、事なきを得た。この時彦島を奪われていたら、その後の日本の流通はイギリスに支配されていたかもしれない。
 アングロサクソンの戦略眼、地政学的な直感は、恐ろしい。
 それほど、関門海峡は日本全体に、大きな影響を及ぼす場所で、しかも因果な地形なのである。
 潮の流れに逆らって進むのはまず不可能で、船の往き来を監視し海峡を管理するのは楽だっただろう。
 ほぼ一方通行であり、潮待ちをする場所も、限られていたにちがいない。
 忌宮(いみのみや)神社の沖合の満珠島、干珠(かんじゅ)島が関門海峡の入口と目されているのは、おそらくこの島の周辺で潮待ちしたのだろうし、事実、源義経の船団は、このあたりに最初集結していた。 
 古代最大の豪族・物部氏が関門海峡の両岸を支配していたのは、ここを手に入れた者が、日本の流通と軍事を差配できるからだ。
 本州島と九州島を隔てる海の幅が、たった六〇〇メートルだったことが大きな意味を持っていたのであり、だからこそ、関門海峡の奪いあいが起こり、ここを支配する者が現れたのである。

 シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」(7)に続く。

文/関 裕二

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