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童貞のまま生涯を終える武士は多かった

3/21(火) 18:00配信

BEST TIMES

『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 武家の次男、三男の人生は悲惨だった。
 武家は男子がなく後継ぎがない場合は改易(かいえき)、つまりお家断絶となった。そのため男子を作ることに腐心した。
 ところが、男の子が生まれても、病気などで夭折することもある。子供の死亡率が高かった当時は、長男ができただけでは安心できない。補欠として次男、三男を用意しておく必要があった。
 いっぽう、弟に生まれた者は、兄が病気で死ぬか、あるいは自分が他家に養子に行くかしないかぎり、実家で厄介者の一生を送るしかなかった。もちろん、結婚など望むべくもない。金がなければ女郎買いもできないので、女を知らないまま終わる武士の次男、三男も少なくなかった。
 『事々録』に、つぎのような事件が記載されている。

 小普請組に属する幕臣、遠山三郎衛門の屋敷は堀端一番町にあった。三郎右衛門には与兵衛という弟がいて、屋敷内に同居していたが、かねてより乱心気味のため、座敷牢に押し込められていた。
 天保九年(1838)四月二十七日、遠山三郎右衛門と息子の荘之助は、父子連れで外出した。ふたりが外出しているあいだ、屋敷にいたのは、座敷牢内の与兵衛をのぞけば、三郎右衛門の妻、ふたりの娘、それに下女の、合わせて四人の女だけである。

 四人の女は表に獅子舞が通りかかったため、屋敷から出て見物していた。そのスキに、与兵衛が座敷牢の格子を破り、抜け出した。女たちが屋敷内に戻ったところ、与兵衛がそっと戸締りをして逃げられないようにしておいてから、襲いかかった。
 逃げ惑う女たちを、与兵衛がつぎつぎと刀で斬りつける。三郎右衛門の妻と娘ふたりは即死、下女は重症を負い、やがて死んだ。四人に斬りつけておいてから、与兵衛は自害した。

 風評では、女たちは三郎右衛門と荘之助が屋敷にいるときはそれなりに与兵衛にも心配りをしていたが、男ふたりが留守をしているあいだは、ろくに食事もあたえないなど、虐待していた。それを恨みに思い、与兵衛は火で格子を焼いて壊し、抜け出したのだという。

 与兵衛は精神異常として座敷牢に閉じ込められていた。その人生は文字通り厄介者だった。こういう救いのない、暗澹たる人生を送っていれば、精神に変調をきたすのも無理はないという気がする。
 また、結婚もできない立場だけに、いっそう女への憎悪をつのらせたのではなかろうか。

文/永井 義男

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