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新宿は「内藤」という地名になる可能性があった!? オシャレ度で青山に完敗した理由とは

3/23(木) 16:20配信

HARBOR BUSINESS Online

 地名には、そのイメージで街の成り立ちを大きく左右する力がある。例えば、“青山”と“新宿”では、どちらにオシャレなイメージを持つだろうか。

 おそらく、ほとんどの人が青山と答えるはずだ。青山は現在のハイソな印象だけでなく、かつては樹木が「青」く生い茂る「山」があったとも連想させる。

 一方で新宿は、「新」という文字に“昔からあった”的な重厚感はなく、日本最大の歓楽街・歌舞伎町のイメージが強すぎるせいか、もはや「宿」からはラブホテルしか想起されない。しかし、青山、新宿共に、江戸時代はどちらも大名屋敷があった由緒ある場所で、実は新宿は“内藤”という地名になる可能性もあった。

 東京の都心は、江戸期に武家町だった名残りから、屋敷を構えた大名の名前や官職が現在の地名になっているところが多い。

 千代田区の紀尾井町は、紀州藩徳川家、尾張藩徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があったことから3家の頭文字をとって、その名がついた。同じく千代田区の神田和泉町は、同地に屋敷を構えた伊勢津藩藤堂家の官位・和泉守が由来だ。名を後世に残すのは武士の誉れであり、家名が地名となるのは、これ以上ない栄誉だ。

◆青山霊園一帯は青山家、新宿御苑一帯は内藤家の領有地だった

 港区の青山も美濃郡上藩青山家の下屋敷(現在の青山霊園一帯)があった場所で、新宿には信濃高遠藩内藤家の中屋敷(現在の新宿御苑一帯)があった。

 青山家、内藤家共に、徳川家が天下を取る前から仕えた“三河以来”の譜代大名であり、青山家は大膳亮(従五位下)、内藤家も伊賀守や大和守(従五位下)の官位を代々拝命するなど家格も同等だ。両家共に、江戸入府後に鷹狩りをした徳川家康から「馬に乗って駆け回れただけの土地を全部やろう」と言われ、譜代大名の中では群を抜く広大な屋敷地を拝領したという言い伝えが残るなど、将軍家の覚えがめでたいライバル関係でもあった。

 しかし、地名に名を残した青山さんと、残せなかった内藤さん、なぜこれほどまでに差がついてしまったのか。

 新宿が“内藤”にならなかった最大の理由は、内藤家の屋敷の隣に新たな宿場町・内藤新宿ができてしまった不運にあった。

 甲州街道と青梅街道の分岐点だったことから、商人たちが宿場開設を願い出て、1699年(元禄12年)にこの地に内藤新宿が設けられた。その際に、商人たちは、幕府に5600両(現在の貨幣価値で7~11億円ほど)を上納して許しを得ている。

 街道の起点である日本橋から、わずか2里(7キロ)しか離れていないのにもかかわらず、莫大な上納金を積んでまで宿場を設置したのは、岡場所(非公認の風俗街)にして儲けることが狙いだった。

◆一大歓楽街に成長する中、内藤さんの存在感はどんどん薄まり……

 当時の宿場は、客に給仕する名目で飯盛女(娼婦)が置かれるのが常であり、内藤新宿は狙い通りに、飯盛女を150人も抱える江戸でも有数の岡場所として賑わいを見せた。

 幕府の風紀取り締まりで一時期廃止されるも復活を遂げ、戦後の青線地帯(非合法の売春街)、現在の歌舞伎町を中心とした歓楽街へと繋がった。こうした歴史的背景から、“内藤”という大名家の名前ではなく、新たな風俗街という意味合いもある“新宿”になってしまったのだ。

 地名では青山さんに完敗を喫した内藤さんだが、実は新宿区内の一町名ではあるが、内藤町として名を残している。かつて新宿一帯を領した内藤さんにとっては、ささやかすぎるかもしれないが、千駄ヶ谷駅にほど近い閑静な住宅街になっている。

 地名には、そのイメージを好む種類の人を惹きつけ、街を育てる一面がある。今の新宿は、良くも悪くも“内藤”ではない方が合っているし、内藤さんにとっても今の方が面子が保ててよかったのではないだろうか。<文/中野龍>

【中野龍】

1980年東京生まれ。日本大学文理学部史学科(日本近現代史専攻)卒。毎日新聞「キャンパる」学生記者、化学工業日報記者などを経て、フリーランス。

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最終更新:3/27(月) 14:59
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