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義経の伝説が生まれた背景にある 「あまりにも静かな最期」

3/26(日) 12:00配信

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長い逃避行を終え、奥州平泉の高館で非業の最期を遂げた義経。しかし、東北から北海道に至る各地には、死んだはずの義経が立ち寄ったという伝説が数多く残っている。時に英雄として、時に悪人として、時に女性を惑わす色男として、様々に残る「北行伝説」の実像に迫る! 

淡白過ぎる英雄の死が語られぬ余白を想起させた

 とりわけ義経の末路は、史実の上では都に残された同時代のわずかな記録に、それも鎌倉からの伝聞として見えるだけで、詳細を知りうる手だては皆無と言っていい。都から遠く離れたみちのく平泉でのことであり、また義経を自殺に追いやった藤原泰衡以下奥州藤原の一族もほどなく滅亡して何一つ記録を残さなかった。
 だから後世に編まれたものとはいえ、『吾妻鏡』の簡潔な記述に頼るほかないのである。

 そこには、文治五年(一一八九)閏四月三十日のこととして、「今日、泰衡が義経を襲撃した。これは朝廷の命に依ったものであり、頼朝の仰せに従ったものである。泰衡は数百騎の兵を従えて藤原基成の衣川館にいた義経と合戦に及んだ。防戦した義経の家人らは全滅して義経は持仏堂に入り、妻二十二歳と娘四歳を殺害した後自殺した。」としるされている。
 義経の最期は、さほどの粉飾もなく一言一句淡々としており、後世の『判官物語』などで語られているような派手なドラマは存在しない。

 五月二十二日条には、義経誅殺を伝える飛脚が鎌倉に参着した旨がしるされて「首級は追って進上」とあった。六月十三日には、腰越浦にて行われた首実検がしるされている。立ち会ったのは和田義盛、梶原景時のほか二十名、義経の首級は黒漆の櫃に納められ美酒に浸されてあった。平泉からの使者であった新田冠者が従者二人に櫃(ひつ)を担わせている様を見て、立ち会った者達はみな涙を拭ったという。物言わぬ首級のこととはいえ、義経が歴史の舞台にあらわれた最後の場面であった。
 ここに英雄の不死伝説が入り込む余白が生じた。自殺の日から首実検までの日数、首級の真贋等々、疑い出したらきりがないのである。

文/千葉 信胤

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