ここから本文です

【テレビの開拓者たち(3) 土屋敏男】T部長が今のテレビマンに贈る言葉

4/5(水) 17:00配信

ザテレビジョン

“アポなし取材”“ヒッチハイク”などで日本のバラエティー界に新風を巻き込んだ「電波少年」シリーズ('92~'03年日本テレビ系)でおなじみの“T部長”こと土屋敏男氏。日本のテレビ文化を築き上げてきたクリエーターの一人である土屋氏に、伝説の番組「進め!電波少年」が誕生した経緯とこれからのテレビについて直撃した。

アポなし、ヒッチハイクなど数々のムチャなロケ企画に挑戦した「電波少年」シリーズ。タイトルや放送時間を変えて2003年まで放送された

■ 「24時間テレビ」でテレビのスゴさに気づきました

――もともと、どうしてテレビ業界を目指したのですか?

「大学生のころ、文化祭実行委員をやっていたんですが、そこで学生が楽しめるステージをと企画した『クラブ対抗歌合戦』が大人気で。いつも文化祭には顔を出さない同級生たちが参加して『面白い』と口々に言ってくれて、人を楽しませる仕事って面白い! と気づきましたね。もう今から36年前ですが…。

日本テレビを目指した理由としては、『24時間テレビ(愛は地球を救う)』('78年~日本テレビ系)でテレビのスゴさ、スケールの大きさに気づいたことが大きいかも。テレビって“すげぇことができる”場所というか。あと、『アメリカ横断ウルトラクイズ』('77~'98年日本テレビ系)も大好きだったんです。あれって、勝者ではなく敗者にスポットを当てた画期的なクイズで。そのドキュメンタリー性にやられて、テレビを見て楽しい気持ちになれる番組を作りたいな、と思いましたね」

――とはいえ、入社後すぐに番組を作るということはなかったんですよね。

「最初は編成部に配属されました。そのときはどうしても制作部に行きたいので、1年で50本くらいの企画書を3年間ずっと書いてました。それが実って制作に。とはいえ、ワイドショーの制作だったので、これまたやりたいことと違って…。

熱愛が発覚すれば、その人の家まで出掛けて玄関のチャイムを鳴らし、帰ってくるまで張り込む。そんなことばかりしていた毎日で。怒られることばかりでしたね。ただ、ここで経験したことが後々、『電波少年』につながっていくので、本当に分からないものですよ。人生ってムダなことなんてないんだって、10年後に気づきました(笑)」

■ “人が怒られる姿”って面白いな…って(笑)

――バラエティーの基礎は「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」('85~'96年日本テレビ系)で教わったとお聞きしましたが。

「ええ、『元気が出るテレビ』には、番組スタートのタイミングで関わりました。総合演出はテリー伊藤さんだったんですが、本当にひどくって(笑)。決められたことはしないし、メチャクチャなんですよ。でも、発想が普通とは違う。面白いと思ったら、予定なんて壊してしまっていい! ということを学びましたね。やっぱりバラエティーって、“面白い”が一番なんですよ。

ただ、『元気が出るテレビ』は人気がありましたけど、そのころの日本テレビには今のような勢いがなくて。当時は他局の人気番組をマネした企画ばかりが通っていた時代でした。そうすると、視聴者ももちろんバカではないから、視聴率がすこぶる悪いわけです。その繰り返しでしたね。だって、ひどいときなんて、金曜日の夜7時で視聴率1.4%を記録したくらいですから(笑)。最近はテレビの視聴率が悪いって言われるけど、こんな数字はないんじゃないかな? なかなかの先駆者ですよ(笑)」

――そんな他局をマネた企画ばかりやっていた中、ある事情から3カ月の間、30分の番組を作ることになるわけですね。そのときは何か制限などはあったのでしょうか。

「とにかく何でもいいからやれって話になって。こんなことは初めてだったので、今までにないことをやろうと決めました。そんなときに思い出したのが、ワイドショー時代の出来事。よくアポなしで取材に行って怒られてたんですけど、そんな“人が怒られる姿”って面白いな…って(笑)。

テレビって、怒られたりトラブったりしているところは絶対放送しないじゃないですか。そういうところをあえて見せようと。そこで誕生したのが『進め!電波少年』('92~'98年日本テレビ系)なんです。渋谷のチーマーを更生させに行ったりだとか、もういろんなことをしましたね。基本、怒られるんですけど(笑)、たまにパレスチナのアラファト議長と会えたり、森英恵さんにスタッフジャンバーを作ってもらえたりと奇跡が起きる。それが面白い。テレビの予定調和が崩れていくところが視聴者にもウケたのかもしれませんね」

■ テレビは「若い人に任せた! あとはよろしく!!」

――そんな人気番組に成長していった「電波少年」が長寿番組になったきっかけは、放送から4年後にスタートした“ユーラシア横断ヒッチハイク”。当時、無名だった有吉弘行が組んでいた猿岩石が一気に人気者になりました。

「当時は番組が有名になってきて、昔のように怒られることが減ってきてたんですよ。そこで次の一手をと考えたのが“ヒッチハイク”でした。当時のバラエティーは、番組を立ち上げるとき、とんねるずやダウンタウン、ウッチャンナンチャンといったスターをまずキャスティングするところから始まるのが基本でした。企画とスターの掛け算で番組ができていた。でも、企画さえ面白ければ、知名度ゼロでもできると思ったんですよ。スターがテレビをつくるのではなく、テレビがスターをつくれるんじゃないかと。

最終的には“アポなし”よりも人気が出て、今の『(世界の果てまで)イッテQ!』(日本テレビ系)のイモトアヤコのような、番組発のスターが生まれる基礎になったのかもしれないですね。でもこれって、実は欽ちゃん(萩本欽一)がやっていた手法で。オーディションをして、この番組でしか見られないスターを作り上げて、視聴率30%の番組を作っていたんですから。以前、僕が欽ちゃんとご一緒した番組は低視聴率で5回で終わっちゃいましたけど、とてもためになるヒントをいただけたと思っていて。繰り返しになるけど、やっぱり経験ってムダではないんですよ(笑)」

――土屋さんは、これまでになかった新たな番組の“構造”を作られて、それは現在のバラエティー界にも多大な影響を与えていると思うのですが、そんな土屋さんからご覧になって、今後のテレビ業界はどうなっていくと思われますか?

「僕は、テレビは時代を映す鏡だと思うんですね。35歳で『電波少年』を始めて10年間走り続けたわけですけど、あの時期、自分は世の中のことをビビットに捉えることができていた。でも、今のテレビの視聴者は、もう僕たちのような世代が主流ではないのかな、と思っていて。去年ヒットした“逃げ恥”(「逃げるは恥だが役に立つ」'16年TBS系)というドラマを見ていても感じたんですけど、あれはやっぱり僕たちの恋愛観とは違いますから。そう考えると、視聴者に合った世代の作り手が、自分たちが面白いと感じる番組を作っていくべきなんだと思います。

昔から、ちょっと斬新な番組を作ると、『こんなものはテレビじゃない!』と言われがちなんですけど、これからもそう言われる番組を作り続けていくことがテレビマンの務めなんじゃないかな。テレビとは、破壊を繰り返して新しいモノを生んできたメディアなんです。今のテレビをぶっ壊す、そんな人が出てくると面白いと思いますね。そして僕はといえば、あくまでもモノ作りは続けていきたいので、テレビというジャンルではなく、VRのコンテンツを作ったり、違うところで勝負ができればいいかなと思ってます。テレビに関しては『若い人に任せた! あとはよろしく!!』と言いたいですね(笑)」

最終更新:4/5(水) 17:00
ザテレビジョン

記事提供社からのご案内(外部サイト)