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【月刊『WiLL』(5月号)より】混沌化が増す村上春樹の世界

4/5(水) 9:03配信

WiLL

村上春樹の新作

 ノーベル文学賞の有力候補に名を連ねる、村上春樹の最新長篇『騎士団長殺し』(新潮社)の第1部・第2部が刊行された。
 現代文学の作家では、累計で1000万部以上のベストセラーとなっている長篇『ノルウェイの森』(1987年)が象徴的だが、読者の圧倒的な支持を受けて新刊で書店を賑わすことのできる、貴重な存在である。
 わたしも近所の山手線の駅ビルにある、小さな書店の店頭で大きく平積みにされているのを見かけ、発売直後に購入した。
 村上春樹は、1995年に起きた阪神淡路大震災を受けた内容をもつ『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)のようなすぐれた短篇集もあるが、本質的には長篇作家である。というより、長篇第3作となる『羊をめぐる冒険』(1982年)あたりから、意識的に長篇を書くことでその作品世界を広げ、世界的な支持を獲得する作家となった。
 そこから『ねじまき鳥クロニクル』(1994~95年)や『海辺のカフカ』(2002年)といった、国際的にも高く評価される作品が生まれてきた。
 だから村上春樹にとって長篇はつねに挑戦の場であり、そこには独特の緊張感をはらんだ作品がいくつもならんでいる。
 最新作となる『騎士団長殺し』もまた、そうした位置づけをもつ長篇である。
 しかし考えてみると、村上春樹は『羊をめぐる冒険』から数えて、もう30年以上にわたって力作長篇を発表しつづけてきた。だとすれば60代の後半に差しかかって、その挑戦に多少の衰えが見られても仕方ないかもしれない。
 それから日本国内のみならず、世界でおそらく数百万人単位で存在する読者の期待に応えようとする重圧も、並大抵のものではないだろう。
 もちろん作品と読者の出会いには、そのような作者の状況など関係ないと言えば、そうである。しかし、村上春樹という名前から作品を手に取る読者も多いはずだ。

幼き「僕」

 わたし自身は、前作の短篇集『女のいない男たち』があまり支持できないものであったことに危惧を覚えながら、おっかなびっくり読みはじめたというのが、正直なところである。
 3人称に挑戦したという、2冊以上となる大長篇としての前作に当たる『1Q84』(2009~10年)とは違って、作品は1人称で語られている。語り手は、もう若くはないが中年とも言い切れない、36歳になる肖像画を職業的に描いている男性の「私」である。挑戦と言うなら、まずこの「私」という一人称が選ばれていることが、そうである。
 なぜなら村上春樹の長篇は、おおむね乾いた自己批評とユーモアのあるぼやきを特徴とする「僕」を語り手ないし重要な登場人物として書かれてきたからであり、その「僕」の語り口は多くの模倣者を生み出すほどの影響力をもっている。
 けれども「僕」という1人称は、舌足らずな少年性を想起させることから、その語り手に無垢であるという強みをあたえるが、同時に社会的に未成熟であることを強いる。
 だから大学生ぐらいの「僕」(『ノルウェイの森』)や、働きはじめたがまだ何者でもない20代の「僕」(『羊をめぐる冒険』)、また結婚したがあまり生活がうまくいっていない「僕」(『ねじまき鳥クロニクル』)などは、その「僕」によって強い説得力をもって描き出された。合い言葉は「やれやれ」である。
 しかし人はいつまでも無垢でいつづけることはできないし、社会的に未成熟であることも、年齢を重ねていけばどこかでわがままに転化する。なによりそのような主人公は、多くの読者を獲得して社会的な影響力をもつようになった作者自身から、大きくかけ離れている。
 つまり『騎士団長殺し』でそれなりに自己を確立し、社会と向きあっていることを感じさせる「私」という1人称が選ばれたことは、そうした「僕」からの明らかな変化を示している。実際、それほど芸術的な環境に恵まれていたわけではないのに美術大学まで進学し、職業的な芸術家にはならなかったが肖像画を描くことで生計を立てているという「私」は、社会人として充分に一人前の存在である。

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最終更新:4/27(木) 15:51
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