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源義経が海を渡り大将軍に!? 蝦夷地に渡る「偽書」の流通

4/6(木) 12:00配信

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長い逃避行を終え、奥州平泉の高館で非業の最期を遂げた義経。しかし、東北から北海道に至る各地には、死んだはずの義経が立ち寄ったという伝説が数多く残っている。時に英雄として、時に悪人として、時に女性を惑わす色男として、様々に残る「北行伝説」の実像に迫る! 

義経ホク行

 内容はともかく、蝦夷ヶ島と義経を結びつけた話が記録としてあらわれはじめるのは近世初、17世紀なかば以降のことである。水戸藩編纂の『大日本史』(1676~)や幕府編纂の『続本朝通鑑』(1670)などは、まさにその走りであった。ただしそれらに記された「義経が神として祀られている」「義経の子孫が生活している」などの伝聞は、いわば辺土からの土産話の域を出ず、はなから当てにすべきではあるまい。
 現地で義経伝説が語られるだけの素地が整うのは、もっと時代が下ってからのことである。むしろ伝説の発生は内地であり、それも江戸・京都・大阪といった都市に求められるのではないか。そのことは平泉以北の岩手・青森両県にも広く分布している「北行伝説」の成立に深く関わるものと思われる。

 18世紀に入ると、「大陸に渡った義経の子が金国の大将軍になった」というトンデモ話があらわれている。これは『金史別本』なる「偽書」がひきおこしたまことしやかな作り話だったが、その悪事が判明するまでの間に写本が相当に流布してしまい、結果これを引用・参考した通俗的な史書や歴史読み物などが後々まで出回ることとなった。この「偽書」騒ぎからも、北行伝説が彼の地ではなく内地先行で成立・普及していったことが想定されよう。

 当時の文学や芸能世界をみると、宝永三年(1706)に興行された近松門左衛門の浄瑠璃『源義経将棊経』や正徳二年(1712)に刊行された馬場信意の『義経勲功記』では、蝦夷の大王・棟梁となって子孫を残したという筋立てになっている。またそこには義経の居所「高館」に抜け穴を準備して脱出したとか、弁慶の立ち往生も実は藁人形だったなどという珍説も描かれていた。
 享保二年(1717)には加藤謙斎の『鎌倉実記』が刊行された。通俗的な歴史書の定番として、その後も広く長く読みつがれたものだが、それもまた『金史別本』を引き写してはばからず、あるいは加藤謙斎こそが『金史別本』ねつ造の張本人であったのかも知れぬという疑惑を残している。なお、篤学の人として知られる新井白石ですら『読史餘論』(1712)、『蝦夷志』(1720)などで義経の蝦夷渡り説に一定の理解を示している点も注目されよう。蝦夷地は近世日本にとっていわゆるグレイゾーンで知識人の北方に対する関心は高かった。そんな時代の空気が読み取れるのである。

文/千葉 信胤

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