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治水工事に邁進した仁徳天皇

5/4(木) 8:00配信

BEST TIMES

常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!?  「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。

堀江は、河内湖にたまった水を、直接瀬戸内海に流すショートカット! 

『日本書紀』仁徳11年夏4月条には、次の記事が載る。5世紀前半のことと思われる。
 天皇は群臣に詔(みことのり)した。
「今、この国を見れば、野や沢が広く、田や畑は少なく乏しい。また、河川は蛇行し、流れは滞っている。少しでも長雨が降れば、海水は逆流し、里は船に乗ったように浮かびあがり、道はドロドロになる。だから群臣たちも、この状態を見て、水路を掘って水の流れを造り、逆流を防ぎ田や家を守れ」
 仁徳天皇の宮は難波の高津宮で、河内平野の状態を天皇は嘆き、問題を解決しようというのだ。
 同年冬10月、宮の北側の野原を掘り、南の水をひいて西の海に流した。それで、この川を「堀江」と呼んだ(難波の堀江。大阪市中央区)。
 この堀江は、上町台地を東西に突っ切る大工事だった。河内湖にたまった水を、直接瀬戸内海に流すショートカットを造ったのだ。ちなみに難波の堀江は、大坂城(あるいは難波宮)のすぐ北に接する大川(旧淀川)となって現存する。

 この結果、水害が激減したにちがいない。
 そして、堀江とセットになって造られたのが、茨田(まむた)の堤だ。話は続いている。
 北の川の洪水を防ぐために茨田堤(大阪府門真(かどま)市)を築いた。この時、2か所に土地の亀裂があって、築いてもすぐに壊れた。すると天皇の夢枕に神が現れ、次のように教えた。
「武蔵人強頸(むさしのひとこわくび)と河内人茨田連衫子(かわうちのひとまむたのむらじころものこ)を神に捧げ祀るなら、必ず塞ぐことができるだろう」
 そこでふたりを捜し出し、水神を祀った。強頸は哀しみ、泣いて、水に沈んで死んでいった。こうして堤は完成した。ただ茨田連衫子は、ヒサゴ(瓢箪(ひょうたん))をふたつもって川に入った。ヒサゴを手に取り、水中に投げ入れ、請うていった。
「川の神は祟って私を幣(まい)(人身御供)としました。それでこうしてやってきました。必ず私を得ようというのでしたら、このヒサゴを沈めて、浮かばせないで下さい。すると私は、本当の神ということを知り、自ら水中に入ろうと思います。もし、ヒサゴを沈めることができないのなら、偽りの神ということが分かります。どうかいたずらに、我が身を滅ぼされませんように」
 すると突然、つむじ風が巻き起こり、ヒサゴを引いて水に沈めようとした。ところがヒサゴは、波の上を転がって沈まない。濁流に吞みこまれそうになりながらも、遠くに浮いて流れていった。茨田連衫子は死なず、堤も完成した。茨田連衫子は才覚で死を免れたのである。だから時の人は、2か所を特別に「強頸断間(こわくびのたえま)」「衫子断間(ころもこのたえま)」と名付けた。
 河内湖の北側でも、水害が起きていたことが分かる。だから、必死に堤をつくったのだろう。

(『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ(10)「ナイル河とピラミッドの関係から導き出せる! 河内王朝は征服王朝ではない!?」です。

文/関 裕二

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