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今も続く名作『BARレモンハート』は、『ダメおやじ』から生まれた――古谷三敏インタビュー【あのサラリーマン漫画をもう一度】

5/4(木) 9:10配信

HARBOR BUSINESS Online

 忘れられないあの漫画。そこに描かれたサラリーマンは、我々に何を残してくれたのか。「働き方改革」が問われる今だからこそ、過去のサラリーマン像をもう一度見つめなおして、何かを学び取りたい。現役サラリーマンにして、週刊SPA!でサラリーマン漫画時評を連載中のライター・真実一郎氏が、サラリーマン漫画の作者に当時の連載秘話を聞く連載企画。

 引き続き、今回も『ダメおやじ』著者である漫画家の古谷三敏先生に話を伺います。場所も引き続き、お孫さんがバーテンダーとして腕を振るう「BARレモンハート」です。

◆後期のアウトドア編の成功が『釣りバカ日誌』を生む

――1978年になって、ダメおやじはひょんなことから社長になって、それ以来残酷描写が全く無くなり、極めて平和なホノボノ漫画になります。あれはどういう意図で方針転換したんですか?

古谷:後半になると、読者に飽きられてくるんですよね。どう変えていこうかというときに、ちょうど日本自身が経済的に疲弊してきていたんです。そんな時に思いついたのが「三年寝太郎」という民話。なんにもしないのに幸せになるというのは、疲れた人たちにとっては夢じゃないですか。だから突然社長にしてみたんです。世の中のことを何となくとらえて、それをテーマに入れたんですよね。

――あの方針転換は、読者からはどんな反響だったんですか?

古谷:いじめてるときは嫌いだったけど面白くなった、というハガキが来たんですよ。連載から5~6年経つと、人気は6~7位と低迷していたんです。でも10歳くらい下の若い編集者に代わって、その人がフライフィッシングとか登山とかが好きなアウトドア派の人で、その人がダメおやじにそういうことをさせましょうと言ったんですよね。僕も悩んでいたし、社長だったら何でもできるから、そうしようと思って。

――古谷先生より10歳下だと団塊世代ですよね。団塊世代ってアウトドア志向や自然回帰志向が強かったんですよね。

古谷:トレッキングをしているオーソリティから話を聞いたり、僕自身も谷川岳に行ったりして。アウトドアなんて全くしたことなかったから、付け焼刃で描いたんだけど、人気がバーンと上がった。だから編集長が人気のない他の漫画をみて「おい、〇〇を山に登らせろ、そうすれば人気が出るから」と言ったりして(笑)。

――でも、アウトドアって大人の趣味ですよね。よく少年誌であれがウケましたよね。

古谷:ダメおやじが釣りをやったのをみて、『ビックコミック』の編集の人が「視点を変えてこれをやったら絶対面白くなる」と言って、やまさき十三さんと北見けんいちさんに声をかけて『釣りバカ日誌』が出来た。だから「ダメおやじがあったから釣りバカが出来た、古谷さんのおかげだよ」と北見さんにお礼を言われた。でもそっちのほう有名になっちゃって、たくさん稼いで、映画もたくさん作られたんだから、すごいよね。

――『ダメおやじ』終盤はめまぐるしく展開を替えて、連載は1982年に終わります。

古谷:最後は本当に最下位のほうを低迷してましたね。もう頃合いかなあと。12年も続いた連載なんて、当時はそう無かったんですよ。でも、「こち亀」は最近まで続いていたからすごいですよ。あれは一生抜けないだろうね。秋本治さんの才能は半端ないなあと。

――僕は『ダメおやじ』の終わり方は好きなんです。3話くらいかけて、過去の登場人物たちがみんなダメおやじのパーティーに参加するために山に集まるっていう。今で言うフェスみたいな感じで。

古谷:ノッているときは、その世界に自分自身が入っちゃうからどんどんエスカレート出来たんですよね。

――後の『BARレモンハート』のマスターも『ダメおやじ』の後半で既に登場していて、最終回にも出てきます。

古谷:少年誌だけど、ダメおやじがメガネさんと「バーうんちく」に行った話を描いて、僕自身が面白かったんですよね。だから次の漫画のテーマにしようって。その延長線上で『BARレモンハート』を描くわけです。テレビドラマにもなって、それなりに床屋さんとかで読まれてるけど、「面白いけど酒のことはわかんねえな」とよく言われる(笑)。マニアックな感じではあるけれど、他の人がやってないし、自分酒も詳しいから、酒の漫画を描いてやろうと。

◆「70年代は日本中が狂っていた」

――『ダメおやじ』はその後、文庫本になったり、コンビニでダイジェスト版が発売されたりしていますが、基本的には社長篇以降の採録で、残酷だった初期はもう読むことが出来ません。これは古谷先生の意思なのでしょうか?

古谷:僕自身が年をとって、最初の頃の話は読むに堪えないというか、なんでこんなすごいこと描いたんだろうって思ってしまうんですよね。特に、車の運転を習っていて犬を轢く話とか、ダメおやじが大事にしているぬいぐるみをイカ太郎が引きちぎって泣かせるとか。恐ろしいというか、なんでこんなの描いたんだろう、というのがありますね。若さかなあ。でも公共の物だからダメだろうと。

――少年漫画の絵柄だからこそ、残酷さが際立っちゃうんですよね。

古谷:前半の残酷ものは、時代もあったと思う。日本はどうなっちゃうんだろうっていうくらい、みんなウハウハ言っていたわけで、今の中国の爆買いみたいな感覚ですよね。不幸な人間がいないみたいな。だから余裕をもって『ダメおやじ』を読めた。でもそのうち、「ダメおやじの家は貧乏だけど庭がある、自分は団地なのでうらやましい」っていう投書が来た。日本自身が疲弊していくと、自分自身がダメおやじみたいな不幸な感じを持つ人が出てきて、こんな漫画を描いていては良くないと思った。 

――1970年代って、前半と後半で景気の勢いが大きく違ったんですね。

古谷:連載が始まったころは、若者はみんなロングヘア―でギター抱えて新宿で歌ってた。 生活苦なんて感じてなかった。あの頃の時代をもう一回検証していくと面白いですよね。政府批判する人が内輪で内ゲバやったり殴り合いやったり。日本中が狂っていた時代に『ダメおやじ』は始まったんです。

――そういう部分が作品に出たのかもしれませんね。

古谷:そうかもしれない。僕自身、お金はすごく入ってきたのに、イライラしてるんだよね。僕は終戦直後に満州から引き揚げて10年くらい食うや食わずで、おやじは寿司屋だったけどお米は配給なので寿司なんて作れないから、密造酒を作ってたんですよね。酒に興味があったのはおやじの密造酒のおかげです。そんなふうに、いつも腹減らしてたのが、いきなりベンツとか買ってマネージャーに与えているわけで。おかしいよね。なんかしっぺ返し喰らうぞって思っていた。

――高度経済成長期って、給料が毎年すごい勢いで増えていたっていいますよね。

古谷:ゴルフ場の会員権を買おうと思ったら、1週間で100万円ずつ値段が上がっていったんですよね。結局買わなかったけれど、それが正解だった。当時ゴルフの会員権はたいてい5000万くらいして、銀行がゴルフ場のパンフ持ってきて、「この家を担保にすればお金を貸すから買ってください」と、ずいぶん来ていましたね。

◆『BARレモンハート』について

――2003年に『なぜ会社は変われないのか』という、原作のあるストレートなサラリーマン漫画を描いてますが、これはどういう経緯で描かれたのですか?

古谷:日本経済新聞社から依頼があったんですよ。原作があるのでリアルなんだけど、すごく苦手だった。自分には経験がないですからね。コンピューターの中の物を作っている会社に取材に行ったりしました。本当は3部作くらいの話だったけど、僕が描くのが遅くて、1年でやっと一冊というペースだったから、一巻で終わっちゃった。

――今は基本的に連載は『BARレモンハート』だけですよね。

古谷:今は1本しかやってない。年金で静かに暮らしてます。

――『BARレモンハート』の連載は32年目に突入しているので、そのうち「こち亀」を抜くんじゃないですか?

古谷:隔週誌なのに、わがままを言って月一回にしてもらってるんです。採り上げる酒を探すのが本当にすごく大変で。基本的には1回描いたお酒はもう使わないので、やればやるほどネタが無くなってく。日本中のバーテンダーがレモンハートに出てくるお酒を見つけて自分の棚に置くくらい、バイブルっぽくなっているので、僕の孫がいつも酒を必死に探してきてくれています。

――日本でバーが普及したのは、サントリーがサラリーマンの新しい飲酒文化を作ろうとして「トリスバー」を通勤駅のそばに増やしたことがきっかけだった、という話を読んだことがあります。

古谷:昔はサントリーオールドを「だるま」と呼んで、オールドをキープして水割りを飲むのがおしゃれだった時代があった。僕もニッカよりサントリーとの付き合いがあったから、作品でもずいぶん採り上げましたよ。サントリーのバーテンダースクールにも通ったし、カクテルコンペの審査員もやらせてもらった。

――昔のサラリーマンはバーで飲んだけど、今の若い人はバーとかあまり行かないんですよね。

古谷:僕がアシスタントの頃はトリス40円、ハイボール50円だった。それでも席料とかサービス料で1000円くらいになっちゃう。有名な先生のアシスタント同士がバーで熱く語っていた時期もあったけれど、意外と酒自体を美味しいと思って飲んでいる人はそんなにいなかったですよ。でも、酒を飲める人が長く将来までつきあえる。『総務部総務課山口六平太』の高井研一郎さんもお酒が好きで味がわかって、僕と一番仲が良くて50年付き合った。

◆描きたい漫画はあるけれど

――古谷先生の漫画家としての原点は、赤塚先生ではなく手塚治虫先生なんですよね。

古谷:初めは手塚先生のところでアシスタントをやって、そこを辞めて自分で漫画を描き始めて。ちょうど赤塚先生のアシスタントが足りなくなって、編集者が僕のアパートに来て「赤塚を手伝ってくれって」と言ったんです。手塚先生って当時は「将軍様」、僕らはアシスタントでも「旗本」という感覚だった。だから赤塚先生は「田舎大名」という感じで、半分馬鹿にしていたんです。

 でも、手塚先生の職場はいつも緊張感でピリピリしていたけど、赤塚先生は年も一つしか違わないし、かなりフレンドリーなので居心地が良かった。自分はギャグの感性は無かったけれど、こうやって漫画を作るんだという感覚も面白くて、ダメおやじにつながった。最終的には赤塚先生に「僕はアシスタントでいいよ」と言ったんだけど、「そのかわり月100万頂戴」って言ったら「それは勘弁してくれ」と言われた(笑)。

――個人的に描きたかったテーマってあったんですか?

古谷:あったよ。まずやりたかったのは新選組だったんだよね。新選組を描きたくて漫画家になったくらい。新選組が会津藩から毎月もらったお金を誰にどれぐらい払っていたんだろうとか、そのお金で長屋に住んでどれくらいの生活だったんだろうとか、そういうリアルな、地に足が着いた、格好悪いけど必死に生きてるような新選組を描きたかった。そういうのは誰も描いてないから、やりたかった。50年温めたけれど、まあたぶん描かない。あと描きたいのは宇宙ものですね。

――描きたいテーマが結構幅広くあったんですね。

古谷:もともと手塚先生のところは宇宙ものが描きたくて入ったんです。地球が住めなくなって100人くらいがどこかの惑星に移住して、もともとの住人と戦いながら少しずつユートピアを形成していく、というものです。もう一つは魔法の世界の話で、それは『ウォークラフト』というゲームが大好きで思いついた。森に棲んでいる連中がどんどん浸食されてイライラして世界中に戦争をしかける、というイメージです。

 でも本当はね、一番やりたかったのは法華経の漫画化です。お経というのはビジュアル的にすごいんですよ。SFみたいだと思って。28章ある法華経を描くのをライフワークにしたかった。でも遅いんだよな、本当に、仕事が。もう全部無理でしょうけど、寝ながらそうやってアイディアをメモしたりしてると楽しいですよ。まだ人生に余力があったら、またどこかでやろうか、とかね。

<文/真実一郎>

【古谷三敏】

1936年、旧満州生まれ。漫画家。終戦とともに茨城県に移る。’55年、少女マンガ『みかんの花さく丘』でデビュー。手塚治虫、赤塚不二夫のアシスタントを経て『ダメおやじ』を発表。現在、「漫画アクション」誌上にて『BARレモン・ハート』を連載中

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