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広島・鈴木誠也、ソフトバンク・上林誠知ら、いま旬な背番号「51」に最初にこだわったのはこの人!

5/6(土) 11:10配信

週刊ベースボールONLINE

 広島の四番に定着しつつある鈴木誠也、同じくソフトバンクのライトに定着しつつある上林誠知。近未来の球界を担うホープたちの背中に輝くのが背番号「51」だ。

 現在マーリンズに所属するイチローがオリックス、マリナーズで着け続けた背番号であり、広島では江藤智、前田智徳ら、のち四番に座った選手が若手時代に着けた“出世番号”でもある。

 ただ、この番号に最初にこだわったトップ選手がイチローだったわけではない。

 1953年中日(当時の球団名は名古屋)に入団した井上登が元祖。井上は入団時にもらった「51」にこだわり、南海に移籍する前年の61年まで着け続け、南海から復帰した現役ラストイヤーの67年も着けた。ベストナイン5回、通算1322安打をマークした俊足のセカンドだが、レギュラーに定着し、もっとも若い背番号を勧められても断り続けたという。

 その理由が“あこがれ”だ。地元愛知の岡崎高出身で、プロ入り前からドラゴンズファン、特に強打者・西沢道夫の大ファンだった井上。西沢の背番号は、のち永久欠番となった「15」だから、つまり、その逆番号である「51」をもらったとき「ああ、縁起がいい」と思った。井上にとって最高の番号だったとも言えるだろう。

 他球団でも東映(現・日本ハム)の大杉勝男が入団の65年から主軸を打つようになっても着け続け、73年日拓と球団名が変わったときに1年だけ「3」にしたが、日本ハムとなった翌74年すぐ「51」に戻している。ただし、その年限りでヤクルトに移籍、新天地では「8」を着けた。

 近鉄でも61年に入団した土井正博が同じく主軸を打つようになっても「51」を着け続けたが、こちらは68年に「3」が空くと、すぐ着け替え、移籍したライオンズでも引退まで続けている。

 ちなみにオリックスの「51」というと若手時代の福良淳一監督の番号でもあった。当時の「福良選手」のあだ名は「デゴイチ」。この理由が分からないという若い皆さんは、40代以上の人か鉄道マニアに聞いてみていただきたい。

写真=BBM

週刊ベースボール

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