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なぜ中大兄皇子は狭い場所に宮を建てたのか?

5/6(土) 8:00配信

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常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!?  「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。

織田信長も琵琶湖畔に安土城を構築した

 大阪は古代から近世に至る、交通の要衝だった。ヤマトから瀬戸内海に抜けるだけではない。琵琶湖から瀬田川を下れば、宇治に出て、宇治から船に乗ったまま、大阪に出られたのだ。

本海から低い峠を越えれば琵琶湖につながっていたのだから、日本海→琵琶湖→宇治→大阪は、一本のラインで結ばれている。また、その逆ルートは、宇治から琵琶湖の標高差を考えると、船で遡上することはむずかしく、一度陸路を使い、逢坂経由の大津入りが活用された。

 大阪と琵琶湖は、日本全体を見渡しても、重要な地位を占めていた。琵琶湖は日本海だけではなく、不破関(関ヶ原)を東に進めば、陸路で東国に出られる。のちの時代の中仙道(なかせんどう)だ。琵琶湖は日本全体を見渡したときジャンクションだったことが分かる。近江から日本を代表する商人や大富豪が出現し、戦国武将が琵琶湖周辺を重視したのは、地形、地理、流通と戦略という視点からみれば、当然のことだったのだ。

 織田信長は琵琶湖畔に安土(あづち)城を構築している。今でこそ周囲は陸地になっているが、当初は水上に浮かぶかのような、湖に突き出た湿地帯の中の高台に築かれた城だったのだ。織田信長は琵琶湖の水運と防衛力に着目したわけである。

 なぜ中大兄皇子(天智天皇)は琵琶湖の西南岸の狭い土地に大津宮を造ったのか? ここで私見を交えて説明しておこう(蘇我氏が改革派だったという考えをベースにしている)。

 中大兄皇子は蘇我氏が主導する政権内部で、日影の存在だった。むしろ、弟の大海人(おおあまの)皇子(みこ)が、蘇我氏期待の星だったのだ。乙巳の変の暗殺計画を練る場面で中大兄皇子と中臣鎌足は、「ひとりでも多くの味方を獲得しよう」と話し合いながら、なぜか一番身近な大海人皇子の名がでてこなかったのは、このためだ。『日本書紀』の乙巳の変をめぐる記載の中で、大海人皇子がまったく姿を現さない。ひょっとすると、大海人皇子自身も、狙われていたのかもしれない。皇位に固執する中大兄皇子は、弟の立太子を阻止するために蘇我入鹿暗殺を強行したのだろう。

 それはともかく、蘇我入鹿暗殺に成功したものの、政権転覆には至らなかった中大兄皇子らは、その後もゲリラ戦を展開し、孝徳朝の末期に、ようやく主導権を握ることとなった。ただし、中大兄皇子は親蘇我派の母(皇極)を擁立して(重祚(ちょうそ)して斉明天皇)、蘇我系豪族たちを黙らせた。

 もちろん、斉明天皇自身も本意では無く、傀儡であることは明らかだった。その上で、中大兄皇子が何をしでかしたかというと、多くの人々が反対した百済救援だった。なぜ百済にこだわったかというと、中臣鎌足が親百済派(もう少し突っ込んでいうと、百済王家出身)だったからだ。斉明天皇以下、多くの女性が九州まで遠征軍に加わったのは、ヤマトに残った親蘇我派の面々を牽制する人質の意味が込められていた。しかし、白村江の戦い(663)に敗れて、中大兄皇子と中臣鎌足は、いよいよもってピンチに立たされる。

(『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ(13)「地形と地理から大津宮の意味は解ける」です。

文/関 裕二

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