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平松洋子 じつは「人間礼讃」だった/ブリア=サヴァラン・著『美味礼讃』

5/10(水) 7:00配信

Book Bang

 あの『美味礼讃』を読む(読み直す)意味を、さてどう捉えるか。

 本書を手にするとき、この一点の落としどころを探りたくなるのは当然だろう。私についていえば、二十代のころ岩波文庫の上下巻を手にして以来、再読の機会のないまま本棚のこやしにしてきた。例の「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるか言ってみせよう」を始めとするアフォリズムで片づけてしまったのは、いま思えば、みょうに力みの入った独断的な筆致に目眩ましを食らったせいだった。ようするに、ブリア=サヴァランという人物にうまく付き合い切れなかったのである。

 しかし、このたびは玉村豊男の新訳、大胆な割愛や省略などの改変がなされたという。訳者自身、いったん訳し始めると「寸暇を惜しんで作業に没頭」「こんなに夢中になった仕事はひさしぶりだ」。ほう、と膝を乗りだす。その興味を落としどころとして、二度目の『美味礼讃』を開いた。

 一八二五年刊行、原題は『味覚の生理学、または超絶的美味学に関する瞑想の数々』。俎上に上げるテーマは、感覚、味覚、美味学、食欲、食物一般、スペシャリテ、渇き、飲みもの、グルマンディーズ、グルマン、食卓の快楽、狩りの中休み、消化、肥満、肥満症の予防と治療、痩せすぎ、断食、消耗、料理の哲学史、レストラン……最初読んだときは、この大風呂敷ぶりが話の拡散を助長している印象を免れなかった。ところが、本書では、ブリア=サヴァランの思考のありかを随所で意識させられる。たとえば、食卓の快楽を定義づけるくだり。「食の快楽」と「食卓の快楽」を区別したうえで、人々がおなじ食卓を囲むことによって人生の機微に通じてゆくと洞察する明快な文脈に、じつは「美味礼讃」は「人間礼讃」だったのだと気づかされ、はっとする。

 この新たな理解は、むろん訳者によってもたらされたものだ。ディレッタント人生の総決算として綴られた長大な綴りかたが古典的名著と呼ばれてこんにちまで生き永らえたのは、ブリア=サヴァランが味覚の枠内に留まることをよしとせず、人間の精神性の深みを書き表そうと挑んだからではないのか。その人物にたいする訳者の共感、尊敬、発見、あるいは憧憬の感情こそ、本書の読みやすさ、わかりやすさの源泉に違いない。さらには、融通無碍に挟みこむ所感、注釈、解説にも妙味がある。冒頭アクセルを踏みこんで「性的な感覚の重要性」をブチ上げる本文に対し、フランス人にとっては「性=恋愛」なんですよ、とフォロー。「セックスを恋愛として昇華するための文化的仕掛けを用意してこなかった日本文化の弱点」にも言及する。古代ローマの饗宴を語る項では、フランス語の慣用では「キャベツを植えに行く」は「隠退して自由になる」と解説。いや、勉強になります。それにしても、長たらしいショコラの記述へのツッコミには蒙を啓かれた。

「デザートの時間は、宮廷や貴族による富と権力の表現として発達してきたフランス料理にとって、小麦粉やクリームといった旧来の食材が、砂糖、ショコラ、バニラ……など新大陸からの到来物によってこの上なく豊かに変身するさまを見届けることで、しかもそれらが異国的なコーヒーの香りとともに供されることで、山の頂上から下界を見下ろしながら、ヨーロッパの文明はついに新大陸を含む世界を手中に収めたのだという、大いなる満足感に浸る時間なのである」

 時空と文化を超えて、西のブリア=サヴァランと東の玉村豊男の両者が手を組んだマジカルな一冊。四三二ページの大著から食卓のまわりに流れる悦びのあれやこれやが濃厚に立ち昇り、にやにや笑いが止まらないのはなぜだろう。

 書棚に埋もれていた書物との思いがけない邂逅。刺さったままの棘がぽろりと抜けたような晴れやかな気分だ。

[レビュアー]平松洋子(エッセイスト)
ひらまつ・ようこ

新潮社 波 2017年5月号 掲載

新潮社

最終更新:5/10(水) 12:18
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