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【書評】鋭い観察眼で中野翠が見たあの著名人の60年代

5/25(木) 16:00配信

NEWS ポストセブン

【書評】『あのころ、早稲田で』/中野翠・著/文藝春秋/1500円+税

【評者】坪内祐三(評論家)

 中野翠の書き下しが刊行された。タイトルにあるように「あのころ」の早稲田大学キャンパス界隈を回想した自伝だ。「あのころ」というのは中野氏が早稲田大学に入学した昭和四十(一九六五)年から、卒業する昭和四十四年、さらに一九七〇年代初頭だ。

 ちょうど早大闘争が始まる頃だ。女子学生の少ない政治経済学部に入った中野さんの観察眼は若い時から鋭い。六〇年安保の時の男子学生たちは皆学生服を着ている。その五年後も大して変化なかったように私は思っていたのだが。

「もうその頃はアイビーファッション(その象徴は銀座みゆき族と創刊直後の雑誌「平凡パンチ」)がはやっていたので、黒の学生服姿は少なくなっていたと思う」

 サークルは「社研」(社会科学研究会)に入るのだが、「社研」は「文学」(文学研究会)と部室を共有していた。「文研」には、「同じ新入生(法学部)で、新崎智という、やたらとデカイ声で冗談ばかり言っている長髪肥満系男子」がいた。彼はのちに呉智英というペンネームで評論家となる。

 新崎青年は同じ頃早稲田で民青の活動家だった宮崎学の回想記『突破者』にも登場する。その回想記中の、「当時は髪も流行の長髪、なかなか堂々たる美男子だった」という一節に、中野氏は、「異議あり!」と言う。「長髪だったのは確かだけれど、『流行の』という感じではなかったし、美男子というには太り過ぎていた」。

 のちに朝日新聞の出版局の名物編集者となる丹野清和もしばしば登場するし(中野氏の生涯唯一のカンニング経験は丹野氏の答案用紙を覗き込んだものだ)、さらに大物も。

 革マル派の学生が授業前の教室にやって来て中野氏をオルグしようとした。そのリーダーは「なかなかイナセな顔立ち」で蓮見清一と言った。のちに雑誌『宝島』の版権を取得して宝島社の社長となる人物だ。それから、若き日の中野氏の写真がふんだんに載っているのがファンにはたまらないだろう。

※週刊ポスト2017年6月2日号